の朗読の一種である。しかし西洋音楽による唄では、文句を読む時の語調 Sprach−melodie は相当無視される。そしてふしはほとんど楽器と同じような約束で動く。この系統は別々な音楽の系統である。
 この事は私共の常識ともよく一致する。今までに大喝采を博した唄い手には多くの芸者があった。それには物珍しさも手伝ったであろうが、唄い方にも何か大いに人の心に訴える処があったであろう。しかし彼らは音階の練習どころでなく、「ド」と「レ」とどちらが高いか低いかどころでなく、初めからド・レ・ミという言葉さえも聞いた事はあるまい。本格的な音楽には全然素人であった。それであれほどの大成功をかち得ている。また作曲者にしても、和声学教科書の例題をピアノで弾かせたら、どれほど正確に弾ける自信があるか怪しいものだそうである。しかし彼らはそれで一世を動かす名流行唄を作っている。これを見ても本格的な音楽的訓練と流行唄とは相当物が違っている事がわかる。
 また私共が流行唄のレコードをかけて発売の楽譜を見ながら、その芸者の唄った声の通りをピアノで弾くとする。ピアノはレコードのふしと似るには似るが、しかし完全には一致しない。ただ似るというだけの事である。声そのものの高さにも、ふしの唄い方にも西洋の楽器では出来ない処がある。楽譜もそこまでは書く事が出来ない。レコードの中に唄のふしを楽器でやる一節のあるものなら、その楽器の部分と声の部分とを比べて見てもすぐわかる。西洋の音楽や楽器の系統とニッポン人の唄のふしとは、物理的な約束の違う処がある。似てはいるが、一致しない。そこへ西洋音楽の長短の音階の構造などを不用意に持出して来ても、それは少々お門が違う。ニッポン人の唄はニッポン語の語調を基礎として、もう一度よくその性質を考えて見なくてはならないものである。私共一般の流行唄を好む大衆は、このニッポン風なものの方に親しみを感じている。
 それはニッポン語の唄として誠に当然な事である。そして西洋の系統の音楽を聞く時には、その時にはまた、そのような気持で聞く。それが本格的な、大仕掛なものになれば、『冬の旅』の演奏になり、ちょっとした模倣という事になれば、学校唱歌だの国民歌謡だのいうようなものになる。その時には私共はニッポン語が明かに西洋音楽の約束に従って鋳直されたものであるという感じを受ける。
 私にはこの鋳直された
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