身の文句や、むずかしい文学の歌に間に合せなふしを付けたようなものくらいで、簡単にあっさり追払われるような、そんな根底の浅いものでない。
 ニッポンの流行唄はニッポン語で唄われる。――そういったら読者諸君はそんな事はわかり切っていると怒るかもしれないが、しかし必ずしもそれはわかり切っているとばかりは言われない。そしてこの辺で話が多少面倒になって、注文の随筆という事からは、あるいは流行唄と国民歌謡ぐらいのへだたりが出来るかもしれない。

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 ニッポンの流行唄はニッポン語で唄われる。ニッポン語の性質からひどく離れたものは私共になつかしみを感じさせにくい。例えば世界的に有名な流行唄『暗い日曜日』は私が確に一番美しい、一番おもしろいと思った曲の一つである。私はあの曲に気品をさえ感じる。しかしそれをニッポン語で唄うと何となくおかしい。不自然である。フランス語で聞く美しさの半分以上はなくなる。やはりニッポンの流行唄はニッポンの言葉にあったニッポンのふしでなくては本当には成立しない。この事が学校唱歌だの国民歌謡だのいうような西洋音楽の組織を基礎にした曲が、心底から私共大衆の感情になずまない理由の一つであろうと思う。
 ここで話が実際非常に面倒になる。一体何がニッポンのふしであるか? 一体ニッポンのふしというような特別なものが存在するか?――それが話の中心になる。
 私はまず第一に声の質の事を考える。それに何かニッポン風なものがありはしないだろうか。そしてそれが私共にニッポン風な流行唄に、特に親しみを感じさせるのではあるまいか。殊に女の声はそうではないだろうか。今まで正式に西洋風な発声法を練習した女の唄で一世を風靡したというような例は割合に少い。それよりも芸者の唄の方が段違いに一般から喜ばれた。私もあのような声は一種の綺麗さをもっていると思う。表情には乏しいし、力が無いし、音域が狭いが、しかし綺麗で、そして何よりもいい事は唄の文句がよくわかる。発音が十分にニッポン語に適している。あれを正式のアルトやゾプラン風にやったとしたら、文句の意味はあれほど明瞭にわかるまい。国民歌謡を本当に流行させる必要があるならば、今をはやりの『ああそれなのに』を唄った芸者に唄ってもらうのは確に一つの方法である。
 私はこのような発音や唄い方の相違が、実際音波の上にどんな形になってあらわれてい
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