らするであろうか。
イグチに出来ないものなら、パデレウスキーにも出来ない。出来る道理がない。イグチの代りにパデレウスキーをつれてきて、この実験をやったとしても、結果は同じような事になるにちがいない。
ピアノがきまれば、その音はきまる。どんな粗製のぼろピアノからでも、名人に叩かれたら美しい音が出るというのでは、ピアノの製造に骨を折る甲斐はない。もしそんなことが実在するならば、ピアノ会社は全く浮ぶ瀬がなくなる。ピアノがきまれば、絃も、槌も、鍵盤も、ペダルも、みなきまってしまう。いかにパデレウスキーでも、その指の力で絃を変えたり槌を変えたりするような魔術は使われない。この場合に変化し得るものは、話を常識的に簡単にして見れば、ただ槌と絃との距離を槌が動く時間だけである。つまり槌の速さだけが人々で変えられる唯一のものである。この距離をsとし、槌の動く時間をtとすれば、槌が絃を叩つ途端の ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] はピアノの音を変えうるただ一つの要素である。そしてこの ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] をきめるものは、簡単にいえば、鍵盤が沈む時の角速度である。今パデレウスキーが鍵盤を押し沈めた時と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたとしたら、この猫の足のタッチからは、パデレウスキーが指のタッチと同じピアノの音が出たにちがいない。
これより外にまだピアノの音を変える秘密があると主張する人は、まずその人の方から、その要素をあげて説明して下さい。私にはそんな事は考えられない。もちろんピアノの音の強さに従って、ピアノの音の波形は、つまり倍音の関係は、多少ちがってくる。その事は相当に面倒な物理上の問題で、私は別の機会に述べる。そしてそれだからこそ私は前にことわっている。パデレウスキーの指と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたらとことわっている。もちろん猫にはそれは出来ないかも知れない。しかしパデレウスキーのタッチの時の鍵盤の角速度を計っておいて、それと同じ角速度を機械で与えたとしたら、その時は機械は十分パデレウスキーを真似る事が出来る。
タッチというような怪しげなものが、如何に音楽批評家やピアノ師匠の迷信に過ぎないものであるかは、も少し外の方面のピアノの音を考えて見るといよいよ明瞭になる。
B 音の混雑
ピアノの音は実際変るべき理
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