み]cosθ=1[#ここで横組み終わり] と見て少しもさしつかえない。指の曲げ方などは常識で考えてピアノを弾く事には問題にならないくらい僅なものである。各※[#二の字点、1−2−22]勝手に弾きやすいように弾けばそれでいい。その外いろいろなタッチの教は、結局手踊の一種である。甚しいのになると、音が出た後の手の力の抜き方や、手くびの動かし方がタッチと言われている。そんな事を本気になって聞いている方も悪い。もう音の出てしまった後の鍵盤で、どんな手踊をしてみたところで、その音と何の関係もあるわけがない。ピアノ演奏家の生命といわれているタッチの技巧は、まず大抵こんなようなものである。これが迷信でなくて何であろう。
円タクの運転手は円タクの構造をよく知っているはずである。ハンドルを握る手つき一つで円タクの速力が非常に変るなど言って、ハンドルの上で手踊をするような運転手の車には、あぶなかしくて乗っていられない。ピアノも一つの機械である。演奏家はその機械の運転手である。それにピアノ演奏家はピアノの構造にまるで無関心である。機械運転の手つき一つで音が変るなどと平気で言っても世間に堂々と通用する。音楽の世界が迷信の世界である証拠である。
これはピアノ演奏家や音楽批評家が本気で音を聞かない事から起るのであろう。多くの音楽学校には聴音という時間がある。これはゆっくり時間をかけて和絃を聞きわける練習である。和絃を聞きわける事は、ただ普通な音楽的な練習である。音波の性質の変化を聞きわけるような微細な音響学的な仕事に比べたら、はるかに容易である。その聴音の時間には6の和絃6‐4との和絃を聞き間違えたくらいな学生が、卒業して先生になった途端に弟子をつかまえて、お前のタッチの音は――などと言ったのでは、およそ話の辻褄が合わない。それは手踊の師匠や茶の湯の師匠のように、ただ手つきを目で見て言っているだけの事である。
そして批評家はこの事について何故に心にもない事を言わなくてはならないか。ピアノの c'[#「c'」は縦中横] の鍵盤をあるいは指で叩いたり、あるいは万年筆の軸で押したり、あるいは猫の足に蹈ませたりするのを隣の部屋で聞いて、それが一々区別出来るかと問われたら、誰も容易には区別出来るとは考えられまい。答えられると思う人は、勇敢にまず自分でやってごらんなさい。そしたら一度で合点が行く。一つ
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