質を考えると、いろいろの点で大変興味があります。しかしそれを私共の生きた音楽の主な楽器としてみれば、極端に物足らない所があります。詳しくいうまでもなく、それは一種の原始楽器に過ぎません。今の私共は三味線ぐらいの事では満足しておられません。それどころでなく、西洋の管絃楽の楽器、ジャズの楽器の全体でも、まだ私共の心は満足しきったとはいえません。私共はまだまだ遥に多くの物を要求しています。今の私共さえ満足しない三味線が、将来ニッポンで作り上げられる理想的な音楽の主な要素になろうなどとは私には到底想像にも及ばない事です。そして今の若い人々が何の目的でこんなものを習いに学校に行かなければならないでしょうか。
 ニッポンの音楽はするだけの事をしてしまいました。それは徳川時代の青年にとっては非常な感激を呼んだものでしょう。正に音楽教育の基礎になったものでしょう。しかし、今は徳川時代ではありません。その音楽も過去の名曲として長く保存されるだけのものです。私は『越後獅子』や『松の緑』は名曲だと思います。しかしそれは過去の名曲だというだけです。そして今の若い人の貴重な命をそんなものの練習に浪費させる事が、果して過去の名曲を保存する事になるでしょうか。私は保存の方法としてならば、それは甚だ下らない事だと思います。

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 博物館は非常に大切な物です。中に保存された古い物が今の私共の生活に役立たないし、また将来も役立つまいからといって、私は博物館をぶちこわせとはいいません。そのようにあらゆるニッポンの古音楽は是非とも完全に保存されなくてはなりません。しかし三味線は今当分堅固な生きた特殊階級の人間で作った博物館に入れられて保存されております。音楽教育の材料に「松の位の外八文字」を使おうというような老人諸君が、つまりその生きた博物館です。私共は三味線の保存については当分心配いりません。
 私はこの機会に、ニッポン音楽の保存について、是非とも諸君に訴える事があります。それはニッポンの民謡の保存であります。ニッポンの特殊階級はそれぞれ自分の音楽を作らせて、今日まで保存して来ました。ニッポンの平民の間からは民謡という一種の音楽が自然に生れて来ました。これこそ偽らないニッポン人の心の声です。しかしこの民謡は保護してくれる特殊の階級がありません。社会の事情が変るに従って亡びてゆくだけです。
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