ニッポン音楽
――音楽学校の邦楽――
兼常清佐

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)外八文字《そとはちもんじ》
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 私は多分誤報だと思います。一九三五年の太陽が赤々と照っている時に、なんぼなんでも、まさかそんな事はないでしょう。それでも是非私の考えを話せというのですか。――
 何時の時代でも、どこでも、必ず老人と青年の対立というものがあります。老人は自分が生きて来た過去の事をなつかしがります。そして自分の頭の中にあるだけの物を基礎として、世の中をそれに調子を合わさせようとします。青年は希望を将来におきます。将来の発展、または幸福のためには、あらゆる努力をおしむまいとします。そこで意見に喰違いが出来ます。メートル法の問題などはそのいい例です。老人の頭ではもちろんメートルなどいう事はわかりません。それで自分の頭にあるだけの尺貫法を基礎にして、世の中をそこまで退歩させて、自分の頭に調子を合させようとします。そしてそれに「愛国」という名を付けます。青年は将来のニッポンを愛します。そして便利なメートル法に自分の頭をすぐ改造してしまいます。
 音楽にもこれとおなじ問題は大正の時代から繰返されました。私もそれについては一役を演じました。私はその時には青年の役を買いました。老人の役を買った人も沢山あります。ただ今ほど愛国という言葉がひどく使われませんでした。老人の頭の程度にニッポンの物事を引きもどすのが愛国であるという考えは、近頃出来たものかもしれません。私は国を愛する事にかけては、おそらく誰にも劣らないでしょう。ただ私は何時も青年の役を買います。ニッポンの将来を愛します。出来るだけ理想的なニッポンを考えます。そしてその理想の実現のために努力しようと思います。
 音楽もこの例にもれません。私は将来のニッポンの音楽文化を考えます。その実現のためにこそ私共は努力しようと思います。すべての判断はそこから来ます。私のためには今日のニッポンの音楽はただ明日のニッポンの音楽を作る過程として、はじめて意味があります。
 ニッポンの音楽という言葉の中にはどれだけのものを含めるかという事について、私と老人諸君とは少し意見がちがいます。老人諸君は、自分の若い時に頭の中にはいった音楽がニッポンの音楽だと思っております。それより以外のものは到底理解する事
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