春の花のように、けんらんとスクリーンをうずめ出したのは、ユニヴァーサル映画会社のブルーバード映画、バタフライ映画であった。つぼみが春の風にさすられて、少しづつ開かんとする感傷的な少年の胸には、この甘美な抒情詩のような美しい恋物語りが、まるで優しく胸をふくらましてくれたのである。
 泉天嶺氏の、いまだにのこる名説明。
 春や春、はる南方のローマンス……
 と、うたわれた、あのブルーバード映画時代なのである。
 マートル・ゴンザレス、エラ・ホール、プリシラー・デン、リリアン・ギッシュ、ムンロー・サルスベリ、ケーネス・ハーラン、ETC、ETC、まったく花を競うスター達リンゴの花の散るようなブルーバード映画、僕をたいした不良少年にもならずに救ってくれたのは、もしかするとこのブルーバード映画であったかも知れない。銀座裏の金春館、花園橋の花園館に松井翠声氏の説明を陶然と聞きながら眺めた、オレンジ色のアルハベットの字幕はいまでもなつかしい。
 ターザン映画を最初に見たのは、やはり葵館で、三十何年前のターザンは、美しく調色され、淡い光の中からかすかにわき起る、……何に――かわ知ら――ネ――ど――心――わびて昔のつたえ――は……というロレライの音楽につれ、夢声氏の名説明で、エルモ・リンカンのターザン、エニット・マーキーの娘、情緒豊かなこのターザン映画は非常に美しく、僕には詩情を感じ、むしろ今日のターザン映画より感めい深いような気がしてならないのである。
 西部劇は当時も相当な流行で、二挺拳銃をさっそうとかまえる、ウイリァム・S・ハートの勇姿、アリゾナやユーコン河を背景に、西部の荒男が娘の純情と誠実に自分の恋をあきらめ悪人をたおし、彼女の好きな男と手を握らし、夕日をあびてトボトボと愛馬を引き小さく消えて行くフェード・アウトのラスト・シーン。馬より長いエス・ハートの顔は、まったく僕等の英雄であったかもしれない。また白馬にまたがり、アリゾナの原野をかけめぐる、トモ・ミックスの壮快な姿は今も眼にのこり、サイレントで銃声は聞えねど、それより大きくせまってきたのは、どういうものであろうか。私はサイレント映画の魔術が今だにわからぬ。
 美術学校時代には、映画芸術を語り、まかりまちがえれば映画監督にならんばかりの意気ごみであり、もっぱら欧洲映画にこり、「キーン」のフラッシュ・バックに驚嘆し、「ニーベ
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