「みの」の死
平山千代子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頴川《えいせん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ゑみや[#「ゑみや」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)どうしたの/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 気狂ひの様になつて帰つて来たゑみや[#「ゑみや」に傍点]から、「みのが轢かれた」ときいて、私が飛び出して行つたとき、みの[#「みの」に傍点]は黄バスのガレーヂの傍に倒れて、かなしい遠吠えをしてゐた。
「みの! みの!」私は人前もかまはず、さう呼んで、冷いコンクリートに膝を突いてしまつた。
「みの! どうしたの/\」
 美濃は私の声をきくと遠吠えをやめて、チラと私を見上げ、眼を細くして満足の表情を示したが、もう尻尾はふれなかつた。
 見ると腰を轢かれたらしく、後足が少し裂けて、白いものが出てゐた。――その時は分らなかつたが、白いのは折れた腰骨の端であつた。
 しかし、そのわりに血は出ず、ただ傷口と口腔から、血を出してゐたが、あまりみぐるしい程ではない。私が来てからは吠えるのもやめて、只ガツクリとそばの板に頭をもたせかけ、丁度、枕をする様な恰好でじつとしてゐる。只呼吸だけは苦しさうに、体中でハツ、ハツとついてゐる。周りは一杯の人だかり。
「まあ、可哀想に。苦しさうですわ。水をのませておやりなさいな」と一人の小母さんが云つた。かういふ重傷のとき、水をのませると直ぐ死ぬといふことを、私はきいた様に思つてゐたから、その気持だけを受けて、
「はあ、さうしませう」と答へた。
 みの[#「みの」に傍点]のことで世話になつたお巡りさんが、
「さあ/\見世物ぢやないんだ」と皆を追ひ払つてくれたのはうれしかつた。
 私は……さう、私はたしかに案外平静だつた。涙なんか一つも出なかつた。極度の緊張に涙が凍つて出なかつたのかもしれない。時々「みの! みの!」と呼びながら、只静かに皆の来るのを待つた。
 おばあ様のお骨折で、正源寺の小父さんがリヤカーを引つぱつて来てくれた。
 私は、リヤカーにのせる時さわつたら、みの[#「みの」に傍点]はこの傷をうけたんだから、気が立つてかみつきやしないかと心配したが、私が抱き上げても声一つたてずじつとしてゐた。平素怒りつぽくて、気の強いみの[#「みの」に傍点]には似合はず、落着いて分別しきつた態度だつた。
 おばあ様と、節ちやんと私とはリヤカーにつきそふて家へ向つた。
 ガタ/\する砂利道では、傷に響くのを恐れて、二人で持ち上げてやつたりした。
 いろんな思ひ出をもつたあの青ペンキの「美濃の家」の前へ下ろされてからのみのは、やつと居心地がよくなつた様に、何度も目を細めて私を見たり皆を見たりした。
 直ぐ遠藤さん(獣医さん)へ電話をかけたが、生憎お留守だとのこと。正源寺の小父さんは目白の方に獣医さんがありますからと、自転車で方々かけ廻つて下さつた。
 みの[#「みの」に傍点]はいかにも苦しさうで、水を欲しがつてゐる様子は誰にもわかる。
 やりたいのは山々だが、せめて獣医さんが来る迄と、水の皿をとりよせようとして止めたこと幾度か……それも、もしかして助かるかもしれない、といふかすかな望みをすて切れない未れんからであつた。誰もが、
「あゝ、もうこれは駄目ですね。助かりませんね」と云つた。
 私も本当は心の中では駄目だなあ、とても助かりつこないなあ、と思つてゐた。
 けれどやつぱりどこかで、助かるかもしれない、なほるかもしれない、と思ふ気持を諦めきれないのだつた。
 みの[#「みの」に傍点]はかつてない程、静かに落着いてゐた。苦しさうではあつたが、その眼は血走るどころか、不思議なほどに美しくすみきつて、どこかしらぬ遠い空の向ふをみつめてゐた。
 私はみの[#「みの」に傍点]の視線を追つて空を見上げた。青くすんだ秋の空に、赤トンボがいくつも/\スイ/\ととんでゐた。
 私はもう直ぐ別れなければならぬであらう、可愛い/\ミーコと一しよにその空をきれいだなあ……と思つてみた。

 みの[#「みの」に傍点]を轢いた自動車の運転手さんがあやまりに来た。そして御主人にお詫びしなければならないのだが、急ぐ荷物をのせてゐるから帰してくれと云つた。
「あやまちは仕方がありません。あなたも御運が悪かつたのです。どうぞ御心配なくお引とり下さつて結構ですから」とおばあ様も、お母様もさう慰めておやりになつた。
 私もちつとも運転手さんをにくむ気持はおこらなかつた。只……只、一度だけ、その為に死んで行く「ミーコ」に頭を下げてもらひたかつた。
 それはあの人達、後悔してあやまつてゐるあの人達に対する辱かしめではあるかも知れない
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