頭が、その時突然現はれて又隠れたのは如何《いか》にも恐ろしかつた、がそれが又同時に非常に可笑しかつた。事が意表に出た為めか、それともその出没の迅速であつた為めか、それとも目金が鼻から落ちた為めか、兎に角非常に可笑しかつた。己は大声で笑つた。無論己も直に気が付いた。どうも一家の友人の資格として、この際笑ふのは穏当でないに相違ない。そこで早速細君の方に向つて、なるべく同情のある調子で云つた。「イワン君は兎に角これでお暇乞ですね。」
この出来事の間、細君がどれだけ興奮してゐたと云ふ事を話したいが、恨むらくはそれを詳細に言ひ現はす程の伎倆を己が持つてゐない。兎に角細君は、最初一声叫んで、それからは全身が痲痺したやうになつて、ちつとも動かずにゐて、この出来事を、傍観してゐた。余所目《よそめ》には冷淡に見てゐるかと思はれる様子であつたが、唯目だけ大きく見開いて、目玉も少し飛び出してゐたやうであつた。とう/\御亭主の頭が二度目に現はれて、次いで永久に隠れてしまつた時、細君は我に返つて、胸が裂けるやうな声で叫んだ。己は為方《しかた》がないから、細君の両手を取つて、力一ぱい握つてゐた。小屋の持主もこの時我れに返つて、両手で頭を押へて叫んだ。「ああ、内の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が。ああ、内の可哀いカルルが。おつ母さん、おつ母さん、おつ母さん。」
その時奥の戸が開いて、所謂《いはゆる》おつ母さんが現はれた。頬つぺたの赤い年増で、頭に頭巾を着てゐる。その外着物は随分不体裁である。この女は小屋の持主の女房だが、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を子のやうにして、カルルと云つてゐたので、持主がおつ母さんと呼んだと見える。年増は亭主の周章してゐるのを見て、顔色を変へて駆け寄つた。
そこで大騒が始まつた。細君エレナは嘆願するやうな様子で、小屋の持主の傍に駆け寄つたり、年増の傍に駆け寄つたりして、「切り開けて、切り開けて」と繰り返した。誰が切り開けるのだか、何を切り開けるのだか分からないが、夢中になつて我を忘れて叫んでゐる。
併し小屋の持主夫婦は細君にも己にも目を掛けずに、ブリツキの盤に引つ付いて、鎖で繋がれた犬のやうに吠えてゐる。
持主は叫んだ。「助かるまい。もう直ぐにはじけるだらう。人一疋、まるで呑んだのだから。」
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