だらう。その間多少の思慮は働いてゐたので、己はこんな事を思つた。「あんな目に逢ふのがイワンでなくて、己だつたらどうだらう。随分困つたわけだ。」それはさうと、己の見たのはかうである。
 ※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は先づ横に銜へてゐたイワンを口の中で、一|捏《こね》捏ねて、足の方を吭《のど》へ向けて、物を呑むやうな運動を一度した。イワンの足が腓腸《ふくらはぎ》まで見えなくなつた。それから丁度|翻芻族《はんすうぞく》の獣のやうに、曖気《おくび》をした。そこでイワンの体が又少し吐き出された。イワンは※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の口から飛び出さうと思つて、一しよう懸命盤の縁に両手で搦み付いた。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は二度目に物を呑む運動をした。イワンは腰まで隠れた。又|曖気《おくび》をする。又呑む。それを度々繰り返す。見る見るイワンの体は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹中に這入つて行くのである。とう/\最後の一呑で友人の学者先生が呑み込まれてしまつた。その時※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の体が一個所膨んだ。そしてイワンの体が次第に腹の中へ這入り込んで行くのが見えた。己は叫ばうと思つた。その刹那に運命が今一度不遠慮に我々を愚弄した。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は吭《のど》をふくらませて、又曖気をした。想ふに、餌が少々大き過ぎたと見える。曖気と一しよに恐ろしい口を開くと突然曖気が人の形になつたとでも云ふ風に、イワンの首がちよいと出て又隠れた。極端に恐怖してゐる、イワンの顔が一秒時間我々に見えた。その刹那に※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の下顎の外へ食み出したイワンの鼻から、目金がブリツキの盤の底の、一寸ばかりの深さの水の中へ、ぽちやりと落ちた。なんだか絶望したイワンがわざ/\この世の一切の物を今一度見て暇乞をしたやうに思はれた。併しぐづ/\してゐる隙《ひま》はない。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]はもう元気を快復したと見えて、又呑む運動をした。そしてイワンの頭は永久に見えなくなつた。
 生きた人間の
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