い。併し僕はちつとも腹はへつてゐない。多分今後もなんにも食はなくても済みさうだ。なにもそれに不思議はないよ。僕の体が※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の内部を全然充実させてゐるのだから、それと同時に僕自身も腹がへると云ふ事はないのだ。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]だつてもこれから先|餌《ゑ》を遣るには及ぶまい。詰まり※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の方では僕を呑んでゐて満足してゐるし、僕の方では又※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の体からあらゆる滋養を取つてゐるわけだね。君は話に聞いてゐるかどうか知らないが、器量自慢の女は或る方法を以て自分の容貌を養ふものだ。それはどうするのだと云ふに、晩に寝る時体中に生肉を食つ付けて置く。それから翌朝になると香水を入れた湯に這入つて綺麗に洗ひ落す。さうするとさつぱりして、力が付いて、しなやかになつて、誰が見ても惚々するのだ。それと同じ事で、僕は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の滋養になつてやるから、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の方から滋養物を己に戻してくれる。詰まり互に養ひ合つてゐるのだ。無論僕のやうな体格の人間を消化すると云ふ事は出来ないから、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]も多少胃が重いやうには感じてゐるだらう。胃は無いのだがね。それはまあどうでも好い。そこを考へて僕はこゝで余り運動をしないやうにしてゐる。なに、運動しようと思へば、勝手だがね。僕は唯人道の考から運動せずにゐて遣るのだ。併し兎に角勝手に動かずにゐるのだから、僕の現在の状態を不如意だと云へば、先この点位が思はしくないのだ。だからチモフエイが僕の事を窮境に陥つてゐると云つたのも、形容の詞だと見れば承認せられない事もないね。かう云つたからと云つて僕が困つてゐると思ふと違ふよ。僕はこれでもゐながらにして人類の運命を左右する事が出来るものだと云ふ事を証明して見せる積りだ。全体当節の新聞や雑誌に出てゐる、あらゆる大議論や新思想と云ふものは、あれは皆窮境に陥つてゐる人間が吐き出してゐるのだ。だからさう云ふ議論を褒めるには、動かない議論だと云ふぢやないか。
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