。そしてその作を公衆に説明して聞かせて遣る。こつちが妻にしてゐる以上は余程の長所がなくてはならん。世間でアンドレイ・アレクサンドロヰツチユをロシアのド・ミユツセエだと云ふのが尤《もつとも》なら、妻はロシアのユウジエニイ・ツウルだと云はれなくてはならん。」
イワンは随分無意味な事を饒舌る男ではあつたが、この長談義を聞いた時は、どうもひどい病気にでもなつてゐはすまいかと、正直を言へば、己は思つた。少くも熱が高くて譫語《うはこと》を言つてゐるやうに思はれた。実は不断のイワンだつて、こんな調子な所があるのだが、只、なんと云つたら好からう、顕微鏡で二十倍位に廓大して見るやうであつた。
己は成るべく優しい声で云つた。「君、そんな風にしてゐて長生が出来ると思つてゐるかね。一体君、たしかに健康でゐるのかい。何を食べてゐるね。寝られるかね。息は出来るかね。いろんな事を聞くやうだが、実に非常な場合だから、友人の立場として聞いて見たいのだがね。」
イワンは腹立たしげに答へた。「それは君、全く余計な好奇心と云ふものだよ。それ以上になんの意味もない質問だ。併しそれに拘らず言つて聞かせよう。君はこの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中でどうしてゐるかと問ふのだね。第一に意外なのは、この※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものは体の中がまるで空虚なのだ。それ、あのモルスカヤだの、ゴロホワヤだの、それから僕の覚え違へでないなら、あのヲスネツセンスキイ区にもあるが、好く大きな店の窓に飾つてあるゴム細工があるね。あの大きい空虚な袋のやうな工合だよ。さうでなかつたら、君、考へて見たつて分かるだらうが、かうしてゐられたものではないからね。」
己は不思議に思はずにはゐられなかつた。
「さうかねえ、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものはそんなにからつぽなものかね。」
イワンは厳格な調子で、詞に力を入れて云つた。「全然空虚だよ。而も察するにそれが自然の法則で、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものはさうしたものなのだらう。そこで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものは、あの鋭い牙の植ゑてある、大きな顎と、長い尾とから成立つて
前へ
次へ
全49ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング