壁に食つ付けてある別な籠に猿が幾疋か入れてある。戸を這入つて、直ぐ左の所に、浴槽《ゆぶね》に多少似てゐる、大きいブリツキの盤がある。この盤は上に太い金網が張つてあつて、そこにやつと一寸ばかりの深さに水が入れてある。この浅い水の中に、非常に大きい鰐がゐる。まるで材木を横へたやうに動かずにゐる。多分この国の湿つた、不愉快な気候に出合つて、平生の性質を総て失つてしまつたのだらう。そのせいか、どうもそれを見ても、格別面白くはない。
「これが鰐ですね。わたしこんな物ではないかと思ひましたわ。」細君は殆ど鰐に気の毒がるやうな調子で、詞を長く引いてかう云つた。実は鰐と云ふものが、どんな物だか、少しも考へてはゐなかつたのだらう。
 こんな事を言つてゐる間、この動物の持主たるドイツ人は高慢な、得意な態度で、我々一行を見て居た。
 イワンが己に言つた。「持主が息張《いば》つてゐるのは無理もないね、兎に角ロシアで鰐を持つてゐる人は、目下この人の外ないのだから。」こんな余計な事を言つたのも、好い機嫌でゐたからだらう。なぜと云ふに、イワンは不断人を嫉《そね》む男で、めつたにこんな事を言ふ筈はないからである。
「もし。あなたの鰐は生きてはゐないのでせう。」細君がドイツ人に向つて、愛敬のある微笑を顔に見せて、かう云つたのは、ドイツ人が余り高慢な態度をしてゐるので、その不愛想な性質に、打ち勝つて見ようと思つたのである。女と云ふものは兎角こんな遣方《やりかた》をするものである。
「奥さん。そんな事はありません。」ドイツ人は不束《ふつゝか》なロシア語で答へた。そして直ぐに金網を持ち上げて、棒で鰐の頭を衝いた。
 そこで横着な動物奴は、やつと自分が生きてゐるのを知らせようと決心したと見えて、極少しばかり尻尾を動かした。それから前足を動かした。それから大食ひの嘴を少し持ち上げて、一種の声を出した。ゆつくり鼾《いびき》をかくやうな声である。
「こら。おこるのぢやないぞ。カルルや。」ドイツ人はそれ見たかと云ふ風で、鰐に愛想を言つたのである。
 細君は前より一層人に媚びるやうな調子で云つた。「まあ、厭な獣だこと。動き出したので、わたしほんとにびつくりしましたわ。きつとわたし夢に見てよ。」
「大丈夫です。食ひ付きはしません。」ドイツ人は細君に世辞を言ふ気味で、かう云つた。そして我々一行は少しも笑はないに、自分で自
前へ 次へ
全49ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング