ドストエウスキー Fyodor Mikhailovich Dostoevski
森林太郎訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)新道《しんみち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|捏《こね》捏ねて、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一

 己の友達で、同僚で、遠い親類にさへなつてゐる、学者のイワン・マトヱエヰツチユと云ふ男がゐる。その男の細君エレナ・イワノフナが一月十三日午後〇時三十分に突然かう云ふ事を言ひ出した。それは此間から新道《しんみち》で見料を取つて見せてゐる大きい鰐《わに》を見に行きたいと云ふのである。夫は外国旅行をする筈で、もう汽車の切符を買つて隠しに入れてゐる。旅行は保養の為めと云ふよりは、寧ろ見聞を広めようと思つて企てたのである。さう云ふわけで、言はゞもう休暇を貰つてゐると看做《みな》しても好いのだから、その日になんの用事もない。そこで細君の願を拒むどころでなく、却て自分までが、この珍らしい物を見たいと云ふ気になつた。
「好い思ひ付きだ。その鰐を一つ行つて見よう。全体外国に出る前に、自分の国と、そこにゐる丈のあらゆる動物とを精《くは》しく見て置くのも悪くはない。」夫は満足らしくかう云つた。
 さて細君に臂を貸して、一しよに新道へ出掛ける事にした。己はいつもの通り跡から付いて出掛けた。己は元から家の友達だつたから。
 この記念すべき日の午前程、イワンが好い機嫌でゐた事はない。これも人間が目前に迫つて来てゐる出来事を前知する事の出来ない一例である。新道へ這入つて見て、イワンはその建物の構造をひどく褒めた。それから、まだこの土地へ来たばかりの、珍らしい動物を見せる場所へ行つた時、己の分の見料をも出して、鰐の持主の手に握らせた。そんな事を頼まれずにした事はこれまで一度もなかつたのである。夫婦と己とは格別広くもない一間に案内せられた。そこには例の鰐の外に、秦吉了《いんこ》や鸚鵡が置いてある。それから
次へ
全49ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング