通したので、その飲んだ丈の酒の利足《りそく》を痰唾にして、毎日大地に払ひ戻すのかと思はれる。
 ペエテルはペピイの体に異状の無いのを見届けた上、手の甲に載せた腮をずらせて、半分右へ向く。丁度クリストフは手鼻をかんだ処で、そのとばしりが地の透くやうになつた上衣《うはぎ》に掛かつてゐるのを、丁寧にゴチツク形の指で弾いてゐる。クリストフは想像の出来ぬ程衰弱してゐる。ペエテルもまだ偶《たま》には物を不思議がることがあるので、一体この痩せ細つたクリストフがどうして生涯のうちに体のどこかを折つてしまはずに、無事で通つたかと不思議がるのである。ペエテルの観察した所では、このクリストフと云ふ男はひよろ長い枯木のやうなもので、それが頸と足首との二箇所で丈夫な杙《くひ》に縛り附けてあるのである。併しクリストフは自分の体にかなり満足してゐる。そして此瞬間にげつぷを一つした。これは中心で満足してゐる印とも胃の悪い印とも見ることが出来る。それと同時にクリストフは歯の無い口で絶えず何か噛んでゐる。上下《うへした》の唇は此運動に磨り耗らされて薄くなつてゐるかと思はれる。又推察を逞くして見れば、此男は胃に力が無くなつて、「時間」も消化することが出来にくいので、その一分一分を精一ぱい熟《よ》く咬み砕いてゐるかとも思はれる。
 ペエテルは腮をずらせ戻して正面を向いて、汁の垂る目を芝生の緑に注いだ。そこには夏服を着た子供が、強い光線の反射のやうに、止所《とめど》なしに緑の叢《むれ》の前を飛び上がつたり又落ちたりしてゐる。それがうるさくてならない。ペエテルは眠りはしない。痩せたクリストフが刈株のやうな腮鬚で領《えり》をこすりながら、ゆつくり何やらを咬んでゐる音と、ペピイががつがと痰を吐きながら、折々余り近くに寄つて来た子供や犬を叱る声とを聞いてゐる。道の遠い所で砂利を掻いてゐる熊手の音も、側を歩く人の足音も、近い所で時計が十二時を打つ音も聞える。ペエテルはもう数へはしない。数へ切れぬ程沢山打てば十二時で午《ひる》だと云ふことを知つてゐる。最後の時計の音と同時に、可哀《かはい》らしい声が耳元で囁く。「おぢいさん、お午。」
 ペエテルは杖に力を入れて起ち上がつて、片手を十になる小娘の明るい色をした髪の上にそつと置く。小娘は此時極まつて、自分の髪の中から枯葉の引つ掛かつたやうな手を摘み出して、それにキスをする。
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