あらゆる感情を湛《たた》えて、異様に赫《かがや》いている。
 私は覚えず猪口を持った手を引っ込めた。私の自尊心が余り甚《はなは》だしく傷《きずつ》けられたので、私の手は殆《ほとん》ど反射的にこの女の持った徳利を避けたのである。
「あら。どうなすったの」
 女の目に映じているのは、前に異なった感情である。それを分析したら、怪訝《かいが》が五分に厭嫌《えんけん》が五分であろう。秋水のかたり物に拍手した私は女の理解する人間であったのに、猪口の手を引いた私は、忽《たちま》ち女の理解すること能《あた》わざる人間となったのである。
 私ははっと思って、一旦《いったん》引いた手を又出した。そして注《つ》がれた杯の酒を見つつ、私は自ら省みた。
「まあ、己《おれ》はなんと云う未錬《みれん》な、いく地のない人間だろう。今己と相対しているのは何者だ。あの白粉《おしろい》の仮面の背後に潜む小さい霊が、己を浪花節の愛好者だと思ったのがどうしたと云うのだ。そう思うなら、そう思わせて置くが好いではないか。試みに反対の場合を思って見ろ。この霊が己を三味線の調子のわかる人間だと思ってくれたら、それが己の喜ぶべき事だろう
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング