garnie《ガルニイ》 の前に来るのである。
 高机一つに椅子二つ三つ。寝台に箪笥《たんす》に化粧棚。その外にはなんにもない。火を点《とも》して着物を脱いで、その火を消すと直ぐ、寝台の上に横になる。
 心の寂しさを感ずるのはかういふ時である。それでも神経の平穏な時は故郷の家の様子が俤《おもかげ》に立つて来るに過ぎない。その幻を見ながら寐入る。Nostalgia《ノスタルギア》 は人生の苦痛の余り深いものではない。
 それがどうかすると寐附かれない。又起きて火を点して、為事《しごと》をして見る。為事に興が乗つて来れば、余念もなく夜を徹してしまふこともある。明方近く、外に物音がし出してから一寸寐ても、若い時の疲労は直ぐ恢復《くわいふく》することが出来る。
 時としてはその為事が手に附かない。神経が異様に興奮して、心が澄み切つてゐるのに、書物を開けて、他人の思想の跡を辿《たど》つて行くのがもどかしくなる。自分の思想が自由行動を取つて来る。自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしてゐて、exact《エクサクト》 な学問といふことを性命《せいめい》にしてゐるのに、なんとなく心の飢を感じて来
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