ラ》の徒《いたづ》ら事《ごと》のやうに思はれる。舞台の上の役を勤めてゐるに過ぎなかつたといふことが、切実に感ぜられる。さういふ時にこれまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や基督教《キリストけう》の思想の断片が、次第もなく心に浮んで来ては、直ぐに消えてしまふ。なんの慰藉《ゐしや》をも与へずに消えてしまふ。さういふ時にこれまで学んだ自然科学のあらゆる事実やあらゆる推理を繰り返して見て、どこかに慰藉になるやうな物はないかと捜《さが》す。併しこれも徒労であつた。
 或るかういふ夜の事であつた。哲学の本を読んで見ようと思ひ立つて、夜の明けるのを待ち兼ねて、Hartmann《ハルトマン》 の無意識哲学を買ひに行つた。これが哲学といふものを覗いて見た初で、なぜハルトマンにしたかといふと、その頃十九世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎《もたら》したと云つた位、最新の大系統として賛否《さんぴ》の声が喧《かまびす》しかつたからである。
 自分に哲学の難有《ありがた》みを感ぜさせたのは錯迷《さくめい》の三期であつた。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証する為めに、錯迷の三期を立ててゐる。第
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