ネいと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時|二親《ふたおや》が、侍《さむらひ》の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々|諭《さと》したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思つて、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思つたことを思ひ出す。そしていよいよ所謂《いはゆる》野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない。
 そんなら自我が無くなるといふことに就いて、平気でゐるかといふに、さうではない。その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはつきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしまふのが口惜しい。残念である。漢学者の謂《い》ふ酔生夢死《すゐせいむし》といふやうな生涯を送つてしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。
 それが煩悶になる。それが苦痛になる。
 自分は伯林《ベルリン》の 〔garc,on〕《ガルソン》 logis《ロジイ》 の寐られない夜なかに、幾度も此苦痛を嘗《な》めた。さういふ時は自分の生れてから今までした事が、上辺《うはべ》の徒《いたづ》ら事《ごと》のやうに思はれる。舞台の上の役を勤めてゐるに過ぎなかつたといふことが、切実に感ぜられる。さういふ時にこれまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や基督教《キリストけう》の思想の断片が、次第もなく心に浮んで来ては、直ぐに消えてしまふ。なんの慰藉《ゐしや》をも与へずに消えてしまふ。さういふ時にこれまで学んだ自然科学のあらゆる事実やあらゆる推理を繰り返して見て、どこかに慰藉になるやうな物はないかと捜《さが》す。併しこれも徒労であつた。
 或るかういふ夜の事であつた。哲学の本を読んで見ようと思ひ立つて、夜の明けるのを待ち兼ねて、Hartmann《ハルトマン》 の無意識哲学を買ひに行つた。これが哲学といふものを覗いて見た初で、なぜハルトマンにしたかといふと、その頃十九世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎《もたら》したと云つた位、最新の大系統として賛否《さんぴ》の声が喧《かまびす》しかつたからである。
 自分に哲学の難有《ありがた》みを感ぜさせたのは錯迷《さくめい》の三期であつた。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証する為めに、錯迷の三期を立ててゐる。第
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