者とは同一人であることもありさうである。
 予の翻譯の疵病として指※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2−13−57]してある箇條を見るに、なる程と頷かれることは極て希である。小説脚本の翻譯は博言學的研究とは違ふ。一字一字に譯して、それを排列したからと云つて、それで能事畢ると云ふわけではない。故らに足した語を原文にないと云つて難じたり、わざと除いた語を原文にあると云つて責めたりしても、こつちでは痛癢を感じない。

      「ノラ」の實例

 近頃予のノラの譯文に就いて云々した人がある。其中の尤も滑稽なものを二三話さう。
 ノラがクリスマスの木を持たせて歸る男を、予は「傳便」と書いた。それは誤で、昔「小走」と云つたもの、今の西洋の messenger boy の事だと、心得顏に教へて貰つた。所が messenger boy を我國で早く有してゐた都會は九州の小倉で、そこに始て傳便の新語が生じたのである。一體小倉は妙な所で、西洋で Litfass の柱と云ふ廣告柱なんぞも、日本では小倉に一番早く出來た。小走とは何か、予は知らない。江戸には昔使屋と云ふものがあつたが、それは傳便
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング