大事な方のために尽して上げることが出来れば、それが慰めにもなりませう。あなたが唯お友達になつて下されば、わたくしどんなにか為合《しあは》せでせう。もう恋なんと云ふことは、生涯駄目かと思つてゐます。」かう云ふ事を言つてゐる間、女は僕に多少の親みをすることを許した。その様子が余り冷澹ではなささうなので、あんな事を言つても、又思ひ返すこともあるだらうと、僕は思つた。
 未来に楽しい事があるだらうと云ふ見込は、幸福の印象をなす筈だから、僕はジユリエツトとした此散歩の土産に、さう云ふ印象を持つて帰らなくてはならないのだ。実際ジユリエツトがいつか僕の情人になつてくれるだらうと云ふ想像は、僕には嬉しかつた。僕は度々スクタリで話をした時の事を思ひ浮べて見た。高い糸杉の木、倒れてゐる柱形の墓石、僕に手を握らせて微笑《ほゝゑ》んでゐる若い女の顔。こんな物が又目に浮ぶ。併しどうもその場合に、僕は局外者になつてゐるやうでならない。詰まり秘密らしく次第にその啓示《けいし》の期の近づいて来る、僕の生涯の隠れた目的は、この目に浮ぶ物の外にあるのだ。
 かう云ふ妙な精神状態を、僕がしてゐるうちに、ブラウン夫婦がテラピアに滞留してゐる筈の、最後の数週が次第に過ぎ去つてしまふ。僕はジユリエツトと差向ひになることがめつたに無い。ブラウンの怪我は早く直つたので、ブラウンか細君かのうちが、始終ジユリエトと僕との間に介《はさ》まつてゐる。そして出立の期が迫つて来る。さていよ/\フランクフルトへ帰る前になつて、ブラウン夫婦は此旅行の記念品を買ひに、スタンビユウルの大勧工場へ往くと云つて、僕をさそつた。或る日の午後、僕等は勧工場の中に這入つて、装飾品の売場から薫物《たきもの》の売場へ、反物の卓から置物の卓へとあちこちうろついた。丁度僕等があの信用の出来ない程古い家具の陳列してある、ベゼスチンと云ふ室に来た時、ジユリエツトとブラウン夫婦とが何か買物をし掛けてゐたので、僕は種々の人の込み合つてゐる中に一人居残つた。僕は連を捜しに出掛けようとしたが、その時ふと気が附いて見れば、一人の男が自分の売場に立つて、多勢《たぜい》の人の頭を見越して、僕に手招《てまねき》をしてゐた。
 その男は武器を売る、髯の長い大男である。拳銃や、トルコ刀や、ヤタガンと云ふ曲つた刀《たう》や、匕首《ひしゆ》なんぞの種々な形をしたのが、その男の前に積み上げてある。僕が近寄ると、その男は身を屈めた。僕はその様子を見てゐた。突然男は身を起して、長い、曲つた刀を、高く差し上げて、華やかな、勇ましい身構をして、鞘を払つた。明るく、強く、切るやうに、鋼鉄は鞣皮《なめしかは》の鞘から滑り出してその陰険な、人に媚びるやうな光沢を現した。男は次第に刃《やいば》を抜き出しながら、茶色の髯の奥で光る白い歯を見せて、ゆるやかに微笑んで、僕の顔を見た。日のかつと照つてゐる中に、その男のさうして立つてゐる姿は、さながら運命の立像であつた。
 若しジユリエツトが来て、ブラウン夫婦がダウウトの翁《おきな》の氈店《かもみせ》に往つたのを知らせなかつたら、僕はいつまでもその男を見詰めてゐただらう。氈店で僕は夫婦に逢つた。数分の後に僕が横になる筈の深紅色の氈は、そこで買つたのだ。あの氈の上に寝てしなやかなジユリエツトの裸体を抱いた時、僕は度々此死の事を思つた。あの上で此世を去らうと云ふ、不可説にして必然な心が養成せられた。此決心に先立ち、此決心に伴つた事情を、これで君に言つて聞かせた。それで僕はジユリエツトの姿、薔薇の谷の小さいトルコの珈琲店、糸杉の木、スクタリの柱形の墓石、ベゼスチンの刀剣商を思ひ浮べるのだ。そして僕はその中に最終の幸福を見出す。なぜと云ふに、死に臨んで優しい顔、美しい国、華やかな身構を思ひ浮べるより楽いことは無い。



初出:「不可説」 明治四五年五月一日「昴」四ノ五
原題(独訳):Unerkla[#「a」にウムラウト]rlicht!
原作者:Henri de Re[#「e」にアクサン‐テギュ]gnier, 1864−1936.
翻訳原本:Der Zeitgeist; Beiblatt zum Berliner Tageblatt. 26. Februar 1912.

底本:「鴎外選集 第十四巻」岩波書店
   1979(昭和54)年12月19日
入力:tatsuki
校正:田口彩子
2001年9月11日公開
青空文庫作成ファイル:
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