を不愉快な意味に於いて此行為に参加させようとするのではない。僕は最後に今一度此女の嬌態と美貌とを思ひ浮べるのが愉快なのである。
僕が先《さ》つき心を怡ましむるに足る情人と云つたのは此女だ。名はジユリエツトと云つて、フランス産である。同胞の女がアメリカ人の妻《さい》になつてゐる。僕は去年ボスポルスに旅行した時出逢つたのだ。僕はテラピアに住まつてゐた。その時此女も矢張テラピアに住まつてゐたので、僕をも此女をも知つてゐた人があつて、二|人《にん》を引き合せてくれたのだ。僕はそのアメリカ人の一家を仮にブラウンと名づけよう。そこでブラウン夫婦とジユリエツトと僕とは中が善くなつた。皆同じホテルに住まつてゐて、毎日逢ふことになつてゐた。
僕が始めて或る事に気が附いたのは、九月の初であつた。スタンビユウルへ往くには余り暑過ぎた。そこで一しよに馬車を傭つて、キユウル・アネエと云ふ所へ往くことにした。キユウル・アネエとは薔薇の谷と云ふことである。テラピアとビユイユウク・デレとに近い、画のやうな部落である。石の階段を登つた上に、葉の茂つた木に蔽はれて、小さいトルコの珈琲店《コオフイイてん》がある。そこで上等の珈琲を飲み、香《か》の高い紙巻烟草を燻らせながら、噴水の音を聞いて涼むことが出来る。
ブラウン夫婦とジユリエツトと僕とは、小さい卓を囲んで据わつて、トルコの菓子や阿月渾子《あるごんす》を噬《か》みながら、ぼんやりして水のささやきと木の葉のそよぎとを聞いてゐた。その時僕は説明の出来ない或る感じのするのに気が附いた。この説明の出来ないと云ふ詞《ことば》はその感じを的確に言ひ表したものである。何とは知らず、或る強大な物で、殆ど感触せられない、隠微な物が、僕の心中で活動し始めた。此物は直覚的な模糊たる感覚でありながら、それに此一刹那から後の我は、それより前の我とは別物だと云ふ、明確な認識が交つてゐる。僕は挙措を失するやうな気分になつたので、それを掩ひ隠すために、珈琲茶碗を取り上げて口まで持つて行つた。併しその持つて行き方が余り不束《ふつゝか》であつたので、ジユリエツトは「どうなすつたの」と云つて笑ひ始めた。
此|笑声《せうせい》を相図に、僕の不愉快な気分は、魔法の利いたやうに消え失せた。どうして僕はあんな馬鹿な事を思つたのだらう。僕の感じたのが恋愛に外ならぬと云ふことを、なぜ僕は即時に発明しなかつただらう。僕の妙な精神状態を自然に説明してゐるものは即ち此女ではないか。今噴水のささやきと木の葉のそよぎとに和する笑声を出してゐる此女、薔薇の谷の珈琲店に、あの晴やかな顔と云ふ一輪の花を添へてゐる、この美しい、若い女に、僕は惚れてゐるのだ。
此断案は僕を安心させた。惚れてゐると云ふ事は、何も僕に苦痛を与へる筈が無い。なぜと云ふに、僕の願にジユリエツトが応ぜないかも知れないと云ふ疑懼《ぎく》は、どの点から見ても無いからである。此女には夫がある。併しその夫と中が悪くなつてゐると云ふことは、ブラウンの話に聞いて居る。一体ブラウン夫婦がかうして此女を旅に連れ出したのは、その中の悪い夫と引き離して置くためである。夫の方でも此女をなんとも思つてはゐないのである。さうして見れば、此場合で僕のしなくてはならない事と云つては、唯恋を打ち明ける丈で好いのである。そしてそれを打ち明ける機会は幾らもありさうである。
果して僕は間もなくその機会を得た。丁度その翌日ブラウンはテラピアの波止場で端艇《ボオト》から上がる時、足を挫いた。怪我はひどくはないが、暫く休息してゐなくてはならない。そこで細君が夫の看病をしてゐる間《ま》、僕は彼女《かのをんな》の散歩の道連になることを申し込んだ。女は一応軽く辞退した上で僕の請を容れた。そこで僕は翌日女をスクタリへ連れて往つて、そこに終日ゐると云ふことになつた。そこにゐる乞食坊主を見たり、大きい墓地に往つて見たりしようと云ふのである。
スクタリの墓地は実に立派な所である。君もきつとあの墓地の事の書いてある紀行を読んだだらう。そして糸杉の蔭に無数の墓がぴつしり並んでゐるのを想像することが出来るだらう。あそこで僕はジユリエツトに話をした。
僕等は車を下りて、脇道に這入つて、あのステエルと云ふ柱形《はしらがた》の墓の倒れてゐるのに腰を掛けた。僕は両手でジユリエツトの手を握つた。ジユリエツトはその手を引かなかつた。木《こ》の間《ま》から透して見れば、ボスポルスの水が青く光つてゐる。黒い嘴細鴉《はしぼそがらす》がばたばたと飛んで澄み切つた空高く升《のぼ》る。多分僕はまづい事は言はなかつただらう。なぜと云ふに、ジユリエツトはこんな意味の返事をしたからである。「あなたのそのお詞《ことば》を侮辱だとは感じません。こんな悲しい身の上になつてゐるのですから、
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