に発明しなかつただらう。僕の妙な精神状態を自然に説明してゐるものは即ち此女ではないか。今噴水のささやきと木の葉のそよぎとに和する笑声を出してゐる此女、薔薇の谷の珈琲店に、あの晴やかな顔と云ふ一輪の花を添へてゐる、この美しい、若い女に、僕は惚れてゐるのだ。
此断案は僕を安心させた。惚れてゐると云ふ事は、何も僕に苦痛を与へる筈が無い。なぜと云ふに、僕の願にジユリエツトが応ぜないかも知れないと云ふ疑懼《ぎく》は、どの点から見ても無いからである。此女には夫がある。併しその夫と中が悪くなつてゐると云ふことは、ブラウンの話に聞いて居る。一体ブラウン夫婦がかうして此女を旅に連れ出したのは、その中の悪い夫と引き離して置くためである。夫の方でも此女をなんとも思つてはゐないのである。さうして見れば、此場合で僕のしなくてはならない事と云つては、唯恋を打ち明ける丈で好いのである。そしてそれを打ち明ける機会は幾らもありさうである。
果して僕は間もなくその機会を得た。丁度その翌日ブラウンはテラピアの波止場で端艇《ボオト》から上がる時、足を挫いた。怪我はひどくはないが、暫く休息してゐなくてはならない。そこで細君が夫の看病をしてゐる間《ま》、僕は彼女《かのをんな》の散歩の道連になることを申し込んだ。女は一応軽く辞退した上で僕の請を容れた。そこで僕は翌日女をスクタリへ連れて往つて、そこに終日ゐると云ふことになつた。そこにゐる乞食坊主を見たり、大きい墓地に往つて見たりしようと云ふのである。
スクタリの墓地は実に立派な所である。君もきつとあの墓地の事の書いてある紀行を読んだだらう。そして糸杉の蔭に無数の墓がぴつしり並んでゐるのを想像することが出来るだらう。あそこで僕はジユリエツトに話をした。
僕等は車を下りて、脇道に這入つて、あのステエルと云ふ柱形《はしらがた》の墓の倒れてゐるのに腰を掛けた。僕は両手でジユリエツトの手を握つた。ジユリエツトはその手を引かなかつた。木《こ》の間《ま》から透して見れば、ボスポルスの水が青く光つてゐる。黒い嘴細鴉《はしぼそがらす》がばたばたと飛んで澄み切つた空高く升《のぼ》る。多分僕はまづい事は言はなかつただらう。なぜと云ふに、ジユリエツトはこんな意味の返事をしたからである。「あなたのそのお詞《ことば》を侮辱だとは感じません。こんな悲しい身の上になつてゐるのですから、
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