フ近隣の家々をも綿密に見てゐた。己はそれを無駄な事のやうに思つた。
 それから我々は再び家の裏口に戻つて、ベルを鳴らして警察の認可証を見せた。番をしてゐた役人が、我々を家の中へ入れた。我々は梯子を登つて、例のレスパネエ家の娘の死骸があつたと云ふ室に這入つた。そこに今は母親の死骸も一しよに置いてあるのである。己の目に這入つたのはガゼツト・デ・トリビユノオ新聞に書いてあつたやうなことだけである。ドユパンは何もかも綿密に検査した。二人の女の体をも見た。それから残の部屋々々を歩いて見て、とう/\中庭に出た。その間憲兵が一人我々に離れずにどこまでも付いて来た。ドユパンの検査は日の暮れるまで掛かつた。役人に暇乞をして帰道に掛かつてから、ドユパンは或る新聞の発送所に立ち寄つた。
 ドユパンと云ふ男が妙な癖のある男だと云ふことは、己はもう話した筈だ。だから己は何事も友達の勝手にさせて置く。その晩にはなぜだか知らぬがドユパンは病院横町の殺人事件の話をわざと避けてしないやうにしてゐた。それから翌日の午頃になつてドユパンは突然己に言つた。「君はあのいまはしい場所で、何か特別な事に気が付きはしなかつたかね。」
 その「特別な」と云ふ詞の調子が己には妙に聞えて、なぜだか知らぬが、己はぞつとした。己は云つた。「いや。どうも特別な事は僕には発見せられなかつたね。僕の気の付いたのは、大抵新聞に書いてあつた位の事だね。」
 友達は云つた。「どうも僕の考へたところでは、ガゼツトなんぞはあの事件の非常に気味の悪い方面に、まるで気が付いてゐないのだね。だが新聞紙の下らない意見なんぞは度外視するとしよう。僕の考では人が解釈すべからざる秘密だと思つてゐる廉《かど》が、却てその秘密を訐《あば》き易くするわけになるのだね。あの事件の行はれた周囲の状況は、捜索すべき区域を極狭く、はつきりと限つてくれるから、僕は都合が好いと思ふ。なぜ警察がまご/\してゐるかと思ふと、あの場合に人を殺すだけの動機はよしや推測することが出来るとしても、なぜあれ程惨酷な殺し態《ざま》をしなくてはならなかつたかと云ふ動機がどうしても見付からないからだ。娘の殺されてゐた部屋に誰もゐなかつたと云ふ事実、それから梯子を登つて行つた人と擦れ違はずに、人間があの家から逃げ出す筈がないと云ふ推測、この二つのものと、多くの人の聞いたと云ふ争論の声とを結び
前へ 次へ
全32ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング