ノ甚しく変形しゐたり。この損傷は煙突に押し込み、又引き出したる為めに生ぜしならん。喉頭は全く圧砕しありたり。腮《あご》の直下に数箇の爪痕《さうこん》及暗紫色の斑点ありき。これ指にて強く圧したるが為めに生ぜしものならん。顔は腫脹《しゆちやう》せる為め甚しき醜形を呈せり。両眼球は眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]より突出しゐたり。舌は半ば噬《か》み切りありたり。上腹部に大いなる挫傷あり。恐くは膝頭にて圧したるものならん。本人の断定に依れば、レスパネエ家の娘は未詳の数人の絞殺するところとなりしならんと云ふ。母の屍体も又甚しく損傷せられたり。右上肢《いうじやうし》及右下肢のあらゆる骨は多少挫折せられたり。左脛骨《さけいこつ》及|左胸《さきよう》の諸肋骨は粉砕せられたり。その他全身に挫傷及皮下出血多く、一見恐るべき状態を示せり。此の如き損傷を来したるを見れば、膂力《りよりよく》ある男子ありて、手に棍棒、鉄棒、椅子等の如き大いなる、重き、鈍き器を取り、それにて打撃したるものと推測せらる。如何なる武器を以てすとも、女子の力にては此の如き加害をなすこと能はざるべし。母の首は検案の際全く躯幹より切り放し且つ挫滅しありたり。頸を切るには極めて鋭き器を以てしたるならん。或は剃刀なりしかと云へり。
アレクサンドル・エチアンヌは外科医にして、ドユマアと共に屍体の検案を命ぜられし助手なり。この医師は総てドユマアの証言を是認し、又その断定に同意を表せり。
以上の外証人として出廷せし人数は少からざれども、特殊なる事実は発見せられざりき。仮に本事件を殺人犯なりとせんも、古来パリイ市中に於て此の如く事体暗黒にして、細部分までも不可思議なる殺人犯を出したることなし。今に至るまで警察は何等の手掛かりをも有せずと云ふ。これ此の如き刑事問題にありては殆ど前例なき事実なりとす。又警察以外の方面より見るに、これ亦この恐怖すべき出来事に対して説明の片影《かたかげ》をだに捉へ得たるものなし。」
新聞の夕刊には、聖ロツキユウス町ではまだ人心が洶々《きよう/\》としてゐると云ふ事、犯罪の場所を再応綿密に調べたり、続いて証人を呼び出して審問したりしたが、いづれも得る所がなかつたと云ふ事などが出てゐる。その次に又銀行の小使アアドルフ・ルボンが逮捕せられたと云ふ事が書き添へてあつた。前に新聞に出た申立の
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