ヘあらざりき。外道《げだう》と叫び、馬鹿と叫びしを辨別したるなり。後の人は外国人なりしが如し。男女の別明かならず。何国の語とも決し難けれども、恐くはスパニア語なりしならんか。本人の申し立てたる室内の状況は余等が昨日の紙上に記したるところと異ることなし。
 アンリイ・ドユワルは隣家の飾職にして、主に銀細工をなせり。その申立次の如し。本人は屋内に最初に入りたる中の一人なり。初めの状況は憲兵卒ミユゼエの申立に同じ。屋内に入りたる数人は、内より扉を鎖したり。これ深更なるに拘らず多数の人、戸口に集りゐて籠《こ》み入らんとしたればなり。本人は彼異様に鋭き声を発せし人をイタリア人ならんと思へり。本人の推測するところにては、その人のフランス人にあらざりしことは確実なるが如し。たしかに男子の声なりとも云ひ難けれども、婦人の声とは思はれずと云へり。発音に依りてイタリア語ならんと推測したれども、本人はイタリア語を解せざるゆゑ、何事を言ひしか分からざりきと云へり。本人は平生二人の女子と親しく交り、詞を交しゝ事あるゆゑ、彼の鋭き声の母子の声にあらざる事は疑を容れずと云へり。
 オオデンハイメルは飲食店の主人にして、その申立次の如し。本人は法廷より召喚せられしものにあらず。陳述の為め自ら進んで法廷に出向きたるものなり。本人はフランス語を善くせざるゆゑ通訳に由りて申し立てたり。本人はアムステルダムに生れしものなり。本人は彼屋内にて叫声の起りたる時町を通り掛かりしものなり。叫声の聞えしは数分間と覚ゆ。恐くは十分間位なりしならん。高声を長く引きたるものにて、気味悪く、神経を震盪するが如き響なりき。本人は屋内に入りたる数人の中なり。屋内の事に関する申立は前数人と略《ほゞ》同じけれども、只一箇条相違せり。本人の推測するところに依れば、彼の鋭き声は男の声にて、たしかにフランス人なりきと覚ゆと云へり。但し何事を言ひしか明かならず。忙はしげなる高声にて調子不揃なりき。激怒若しくは恐怖に由りて調子を高めたるものゝ如く聞き做《な》されたり。前には鋭き声と云ひしが、鋭しと云ふ形容は当らざるやも知れずと云へり。今一人のそつけなき声は度々外道と呼び、畜生と呼び、こらと呼びしを記憶すと云へり。
 ジユウル・ミニオオは銀行業者にして、ドロレエヌ町なるミニオオ父子商会の名前主なり。老ミニオオの方なり。その申立次の如し。レスパ
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