フ如し。本人は殆ど四年前より少量の刻煙草及嗅煙草をレスパネエ夫人に売却しをれり。本人は近隣にて生れしものにて未曾つて住所を離れたることなし。レスパネエ家の母子は彼屍体を発見したる家に移住してより六年余になれり。彼家屋には初め宝石商の住めるありて、その人は上層の諸室を種々の貸借人に貸しゐたり。元来家屋はレスパネエ夫人の所有なりしに、宝石商これを借り受けをり、濫に上層を他人に又貸ししたる故、夫人はその所為に慊焉《けんえん》たるものあり。終に自ら屋内に移り来て、それより上層を何人にも貸すことなかりき。老夫人は子供らしくなりゐたり。本人は前後六年の間にレスパネエ家の娘に五六回会見せり。母子とも社交を避けゐたり。世評に依れば財産家なりしものゝ如し。本人は隣家の人の口より老夫人が巫女《みこ》なりしことを聞きしが信ぜざりき。老夫人の家に出入する人は殆ど絶無にて、母子の外出するを見掛けし外には、門番の男の顔を一二回見たると、医師の出入するを八九回見たるとを記憶するのみ。
 その外近隣の人数人の申立あれども皆大同小異なりき。人の全く出入せざる家なれば、母子に親族の現存せるものありや否やを知るものなし。家の前側《ぜんそく》の窓は曾つて開きありたることなし。中庭に向ひたる窓はいつも閉ぢありて、只第四層の奥の広間の窓のみ開きありき。家は堅牢なる建築にて未だ古びをらず。
 イジドオル・ミユゼエと云ふ憲兵卒の申立は次の如し。本人は午前三時頃レスパネエ家に呼ばれたり。戸口に到着せし時には、二三十人の人屋内に押し入らんとしてひしめきゐたり。本人は已むことを得ず銃剣を用ゐて扉を開きたり。鉄棒を用ゐしにあらず。扉は観音開にて、おとしの如きもの上下ともになかりしゆゑ銃剣にて開くことは容易なりき。叫声は扉を開くまで聞えたりしが、開き終りし時突然止みたり。叫声は一人なりや数人なりや明かならざりしが、必死になりて発せしものゝ如くなりき。高声を長く引きたり。忙《いそが》はしげに短く発したる声にはあらざりき。本人は戸口にありし数人と共に梯子を登りたり。第一の梯子を登り終りし時、二人の声を聞き分くることを得たり。二人は声高に物を争ふものゝ如くなりき。一人の声はあららかにそつけなく聞えたり。今一人の声は一種異様なる鋭き声なりき。前の人の詞は一二語を辨別することを得たるが、その人はフランス人なりしものゝ如し。無論女子に
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