て、一間《ひとま》を見渡したが、どれもどれも知らぬ顔の男ばかりの中に、鬚《ひげ》の白い依田《よだ》学海さんが、紺絣《こんがすり》の銘撰《めいせん》の着流しに、薄羽織を引っ掛けて据わっていた。依田さんの前には、大層身綺麗にしている、少し太った青年が恭しげに据わって、話をしている。僕は依田さんに挨拶をして、少し隔たった所に割り込んだ。簾《すだれ》越《ご》しに川風が吹き込んで、人の込み合っている割に暑くはなかった。
 僕は暫《しばら》く依田さんと青年との対話を聞いているうちに、その青年が壮士俳優だと云うことを知った。俳優は依田さんの意を迎えて、「なんでもこれからの俳優は書見をいたさなくてはなりません」などと云っている。そしてそう云っている態度と、読書と云うものとが、この上もない不調和に思われるので、僕はおせっかいながら、傍《そば》で聞いていて微笑せざることを得なかった。同時に僕には書見という詞《ことば》が、極めて滑稽《こっけい》な記憶を呼び醒《さま》した。それは昔どこやらで旧俳優のした世話物を見た中に、色若衆のような役をしている役者が、「どれ、書見をいたそうか」と云って、見台を引き寄せた事で
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