とあるまい。それも夫婦の義務の鎖に繋《つな》がれていてする、イブセンの謂《い》う幽霊に祟《たた》られていてすると云うなら、別問題であろう。この場合にそれはない。又恋愛の欲望の鞭《むち》でむちうたれていてすると云うなら、それも別問題であろう。この場合に果してそれがあろうか、少くも疑を挟《はさ》む余地がある。そうして見ると、財産でもなく、生活の喜でもなく、義務でもなく、恋愛でもないとして考えて、僕はあの女の捧げる犠牲のいよいよ大きくなるのに驚かずにはいられなかったのである。
僕はこんな事を考えて、鮓を食ってしまった跡に、生姜《しょうが》のへがしたのが残っている半紙を手に持ったまま、ぼんやりしてやはり二人の方を見ていた。その時一人の世話人らしい男が、飾磨屋の傍へ来て何か※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]くと、これまで殆ど人形のように動かずにいた飾磨屋が、つと起《た》って奥に這入った。太郎もその跡に引き添って這入った。
暫くすると蔀君が僕のいる所へ来て、縁側にしゃがんで云った。「今あっちの座敷で弁当を上がっていなすった依田先生が もう怪談はお預けにして置いて帰ると云われたので、飾磨
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