襞《ひだ》を崩《くず》さずに、前屈みになって据わったまま、主人は誰《たれ》に話をするでもなく、正面を向いて目を据えている。太郎は傍《そば》に引き添って、退屈らしい顔もせず、何があっても笑いもせずに、おりおり主人の顔を横から覗いて、機嫌を窺《うかが》うようにしている。
僕は障子のはずしてある柱に背を倚せ掛けて、敷居の上にしゃがんで、海苔巻《のりまき》の鮓を頬張りながら、外を見ている振をして、実は絶えず飾磨屋の様子を見ている。一体僕は稟賦《ひんぷ》と習慣との種々な関係から、どこに出ても傍観者になり勝である。西洋にいた時、一頃《ひところ》大そう心易く附き合った爺いさんの学者があった。その人は不治の病を持っているので、生涯無妻で暮した人である。その位だから舞踏なんぞをしたことはない。或る時舞踏の話が出て、傍《そば》の一人が僕に舞踏の社交上必要なわけを説明して、是非稽古をしろと云うと、今一人が舞踏を未開時代の遺俗だとしての観察から、可笑《おか》しいアネクドオト交りに舞踏の弊害を列《なら》べ立てて攻撃をした。その時爺いさんは黙って聞いてしまって、さてこう云った。「わたくしは御存じの体ですから、舞踏なんぞをしたことはありません。自分の出来ない舞踏を、人のしているのを見ます度に、なんだかそれをしている人が人間ではないような、神のような心持がして、只目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って視ているばかりでございますよ」と云った。爺いさんのこう云う時、顔には微笑の淡い影が浮んでいたが、それが決して冷刻な嘲《あざけり》の微笑ではなかった。僕は生れながらの傍観者と云うことに就いて、深く、深く考えてみた。僕には不治の病はない。僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧《わ》き立った時も、僕はその渦巻《うずまき》に身を投じて、心《しん》から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚《うお》が水に住むように、傍観者が傍観者の境《さかい》に安んじているのだから、僕はその時尤もその所を得ているのである。そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うよう
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