にもなくなっている。一体あんなに飽くまで身綺麗にして、巧者に着物を着こなしているのに、なぜ芸者らしく見えないのだろう。そんならあの姿が意気な奥様らしいと云おうか。それも適当ではない。どうも僕にはやはりさっき這入った時の第一の印象が附き纏《まと》っていてならない。それはふと見て病人と看護婦のようだと思った。あの刹那《せつな》の印象である。
 僕がぼんやりして縁側に立っている間《ま》に、背後《うしろ》の座敷には燭台が運ばれた。まだ電燈のない時代で、瓦斯《ガス》も寺島村には引いてなかったが、わざわざランプを廃《や》めて蝋燭にしたのは、今宵《こよい》の特別な趣向であったのだろう。
 燭台が並んだと思うと、跡から大きな盥《たらい》が運ばれた。中には鮓《すし》が盛ってある。道行触《みちゆきぶり》のおじさんが、「いや、これは御趣向」と云うと、傍にいた若い男が「湯灌《ゆかん》の盥と云う心持ですね」と注釈を加えた。すぐに跡から小形の手桶《ておけ》に柄杓《ひしゃく》を投げ入れたのを持って出た。手桶からは湯気が立っている。先《さ》っきの若い男が「や、閼伽桶《あかおけ》」と叫んだ。所謂《いわゆる》閼伽桶の中には、番茶が麻の嚢《ふくろ》に入れて漬《つ》けてあったのである。
 この時玄関で見掛けた、世話人らしい男の一人が、座敷の真ん中に据わって「一寸皆様に申し上げます」と冒頭を置いて、口上めいた挨拶をした。段々準備が手おくれになって済まないが、並《なみ》の飯の方を好む人は、もう折詰の支度もしてあるから、別間の方へ来て貰いたいと云う事であった。一同鮓を食って茶を飲んだ。僕には蔀君が半紙に取り分けて、持って来てくれたので、僕は敷居の上にしゃがんで食った。「お茶も今上げます。盥も手桶も皆新しいのです」と蔀君は言いわけをするように云って置いて、茶を取りに立った。しかしそんな言いわけらしい事を聞かなくても、僕は飲食物の入物の形を気にする程、細かく尖《とが》った神経を持ってはいないのであった。
 僕が主人夫婦、いや、夫婦にはまだなっていなかった、いやいや、やはり夫婦と云いたい、主人夫婦から目を離していたのは、座敷に背を向けて、暮れて行く庭の方を見ながら、物を考えていた間だけであった。座敷を見ている間は、僕はどうしても二人から目を離すことが出来なかった。客が皆飲食をしても、二人は動かずにじっとしている。袴の
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