があるように言い触らしたのは、没分暁漢の言か、そうでなければためにするものの言である。もっともおかしいのは自然主義は自由恋愛主義だという説である。自由恋愛は社会主義者が唱えているもので、芸術の自然主義というものには関係がない。自由恋愛が作品に現われたことがあるとしても、それは一時西洋で姦通小説だの、姦通脚本だのというものが問題になっていたと同じことで、真の芸術の消長には大した影響はない。
近ごろは自然主義ということが話題に上ることが少なくなって、その代りに個人主義ということが云々せられる。
芸術が人の内生活を主な対象にする以上は、芸術というものは正しい意義では個人的である。この意義における個人主義は、哲学的に言えば、万有主義と対している。家族とか、社会とか国家とかいうものを、この個人主義が破壊するものではない。
Stirner(マックス・シュティルナー)の人生観のように、あらゆる観念を破壊して、跡に自我ばかりを残したものがあって、それを個人主義とも名づけたことがある。あれは無政府主義の土台になっている。しかしあれは自我主義である。利己主義である。
利己主義は倫理上に排斥しなくて
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