ず。ただ厭《いと》ふにはゆるは彼方《あなた》の親切にて、ふた親のゆるしし交際の表《おもて》、かひな借さるることもあれど、唯二人になりたるときは、家も園もゆくかたもなう鬱陶《いぶ》せく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがたうなりぬ。何ゆゑと問ひたまふな。そを誰か知らむ。恋ふるも恋ふるゆゑに恋ふるとこそ聞け、嫌ふもまたさならむ。」
「あるとき父の機嫌|好《よ》きを覗得《うかがいえ》て、わがくるしさいひ出でむとせしに、気色《けしき》を見てなかば言はせず。『世に貴族と生れしものは、賤《しず》やまがつなどの如くわがままなる振舞、おもひもよらぬことなり。血の権の贄《にえ》は人の権なり。われ老《おい》たれど、人の情《なさけ》忘れたりなど、ゆめな思ひそ。向ひの壁に掛けたるわが母君の像《すがた》を見よ。心もあの貌《かおばせ》のやうに厳《いつく》しく、われにあだし心おこさせ玉はず、世のたのしみをば失ひぬれど、幾百年《いくももとせ》の間いやしき血|一滴《ひとしずく》まぜしことなき家の誉《ほまれ》はすくひぬ。』といつも軍人ぶりのこと葉つきあらあらしきに似ぬやさしさに、兼ねてといはむかく答へむとおもひし略《てだて》、胸にたたみたるままにてえもめぐらさず、唯《ただ》心のみ弱うなりてやみぬ。」
「固《もと》より父に向ひてはかへすこと葉知らぬ母に、わがこころ明《あか》して何にかせむ。されど貴族の子に生れたりとて、われも人なり。いまいましき門閥、血統、迷信の土くれと看破《みやぶ》りては、我胸の中に投入るべきところなし。いやしき恋にうき身|窶《やつ》さば、姫ごぜの恥ともならめど、この習慣《ならわし》の外《と》にいでむとするを誰か支ふべき。『カトリック』教の国には尼《あま》になる人ありといへど、ここ新教のザックセンにてはそれもえならず。そよや、かの羅馬教《ローマきょう》の寺にひとしく、礼知りてなさけ知らぬ宮の内こそわが冢穴《つかあな》なれ。」
「わが家もこの国にて聞ゆる族《うから》なるに、いま勢ある国務大臣ファブリイス伯とはかさなる好《よしみ》あり。この事おもてより願はばいと易《やす》からむとおもへど、それの叶《かな》はぬは父君の御心《みこころ》うごかしがたきゆゑのみならず。われ性《さが》として人とともに歎き、人とともに笑ひ、愛憎二つの目もて久しく見らるることを嫌へば、かかる望をかれに伝へ、これにいひ継がれて、あるは諫《いさ》められ、あるは勧められむ煩《わずら》はしさに堪《た》へず。いはんやメエルハイムの如く心浅々しき人に、イイダ姫嫌ひて避けむとすなどと、おのれ一人にのみ係ることのやうにおもひ做《な》されむこと口惜《くちお》しからむ。われよりの願と人に知られで宮づかへする手立《てだて》もがなとおもひ悩むほどに、この国をしばしの宿にして、われらを路傍の岩木などのやうに見もすべきおん身が、心の底にゆるぎなき誠をつつみたまふと知りて、かねて我身いとほしみたまふファブリイス夫人への消息《しょうそこ》、ひそかに頼みまつりぬ。」
「されどこの一件《ひとくだり》のことはファブリイス夫人こころに秘めて族《うから》にだに知らせ玉はず、女官の闕員《けついん》あればしばしの務《つとめ》にとて呼寄せ、陛下《へいか》のおん望《のぞみ》もだしがたしとて遂にとどめられぬ。」
「うき世の波にただよはされて泳ぐ術《すべ》知らぬメエルハイムがごとき男は、わが身忘れむとてしら髪《が》生やすこともなからむ。唯《ただ》痛ましきはおん身のやどりたまひし夜、わが糸の手とどめし童《わらべ》なり。わが立ちし後も、よなよな纜《ともづな》をわが窓の下に繋ぎて臥《ふ》ししが、ある朝《あした》羊小屋の扉のあかぬにこころづきて、人々岸辺にゆきて見しに、波虚しき船を打ちて、残れるはかれ草の上なる一枝《いっし》の笛のみなりきと聞きつ。」
 かたりをはるとき午夜《ごや》の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の大休《おおやすみ》となり、妃はおほとのごもり玉ふべきをりなれば、イイダ姫あわただしく坐を起《た》ちて、こなたへ差しのばしたる右手《めて》の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の間《ま》に設けたる夕餉《スペー》に急ぐまらうど、群立ちてここを過ぎぬ。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、をりをり人の肩のすきまに見ゆる、けふの晴衣《はれぎ》の水いろのみぞ名残なりける。



底本:「舞姫・うたかたの記 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年1月16日第1刷発行
   1992(平成4)年3月5日第21刷発行
底本の親本:「鴎外全集第二巻」岩波書店
   1971(昭和46)年12月刊
初出:「新著百種 第12号」吉岡書籍店
   1891(明治24)年1月28日
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年3月21日作成
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