文づかひ
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)星《ほし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒|天鵝絨《ビロード》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]
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 それがしの宮の催したまひし星《ほし》が岡《おか》茶寮《さりょう》の独逸会《ドイツかい》に、洋行がへりの将校次を逐《お》うて身の上ばなしせし時のことなりしが、こよひはおん身が物語聞くべきはずなり、殿下も待兼《まちか》ねておはすればと促されて、まだ大尉《たいい》になりてほどもあらじと見ゆる小林といふ少年士官、口に啣《くわ》へし巻烟草《まきタバコ》取りて火鉢《ひばち》の中へ灰振り落して語りは始めぬ。
 わがザックセン軍団につけられて、秋の演習にゆきし折、ラァゲヰッツ村の辺にて、対抗は既に果てて仮設敵を攻むべき日とはなりぬ。小高き丘の上に、まばらに兵を配りて、敵と定めおき、地形の波面《なみづら》、木立《こだち》、田舎家《いなかや》などを巧《たくみ》に楯《たて》に取りて、四方《よも》より攻寄《せめよ》するさま、めづらしき壮観《みもの》なりければ、近郷《きんごう》の民ここにかしこに群《むれ》をなし、中に雑《まじ》りたる少女《おとめ》らが黒|天鵝絨《ビロード》の胸当《ミーデル》晴れがましう、小皿伏せたるやうなる縁《ふち》狭き笠に草花《くさばな》插したるもをかしと、携《たずさ》へし目がね忙《いそが》はしくかなたこなたを見廻《みめぐ》らすほどに、向ひの岡なる一群きは立《だち》てゆかしう覚えぬ。
 九月はじめの秋の空は、けふしもここに稀なるあゐ色になりて、空気|透徹《すきとお》りたれば、残る隈《くま》なくあざやかに見ゆるこの群の真中《まなか》に、馬車|一輛《いちりょう》停《と》めさせて、年若き貴婦人いくたりか乗りたれば、さまざまの衣《きぬ》の色相映じて、花|一叢《いっそう》、にしき一団、目もあやに、立ちたる人の腰帯《シェルベ》、坐りたる人の帽《ぼう》の紐《ひも》などを、風ひらひらと吹靡《ふきなび》かしたり。その傍《かたわら》に馬立てたる白髪の翁《おきな》は角扣紐《つのボタン》どめにせし緑の猟人服《かりゅうどふく》に、うすき褐《かち》いろの帽を戴《いただ》けるのみなれど、何となく由《よし》ありげに見ゆ。すこし引下がりて白き駒《こま》控へたる少女《おとめ》、わが目がねはしばしこれに留まりぬ。鋼鉄《はがね》いろの馬のり衣《ごろも》裾長《すそなが》に着て、白き薄絹巻きたる黒帽子を被《かぶ》りたる身の構《かまえ》けだかく、今かなたの森蔭より、むらむらと打出でたる猟兵の勇ましさ見むとて、人々騒げどかへりみぬさま心憎し。
「殊《こと》なるかたに心|留《と》めたまふものかな。」といひて軽く我《わが》肩を拍《う》ちし長き八字髭《はちじひげ》の明色《ブロンド》なる少年士官は、おなじ大隊の本部につけられたる中尉《ちゅうい》にて、男爵《だんしゃく》フォン・メエルハイムといふ人なり。「かしこなるは我が識《し》れるデウベンの城のぬしビュロオ伯《はく》が一族なり。本部のこよひの宿はかの城と定まりたれば、君も人々に交りたまふたつきあらむ。」と言畢《いいおわ》る時、猟兵やうやうわが左翼に迫るを見て、メエルハイムは馳去《かけさ》りぬ。この人と我が交りそめしは、まだ久しからぬほどなれど、善《よ》き性《さが》とおもはれぬ。
 寄手《よせて》丘の下まで進みて、けふの演習をはり、例の審判も果つるほどに、われはメエルハイムと倶《とも》に大隊長の後《しりえ》につきて、こよひの宿へいそぎゆくに、中高《なかだか》に造りし「ショッセエ」道美しく切株残れる麦畑の間をうねりて、をりをり水音の耳に入るは、木立《こだち》の彼方《あなた》を流るるムルデ河に近づきたるなるべし。大隊長は四十の上を三つ四つも踰《こ》えたらむとおもはるる人にて、髪はまだふかき褐《かち》いろを失はねど、その赤き面《おもて》を見れば、はや額《ぬか》の波いちじるし。質樸《しつぼく》なれば言葉すくなきに、二言《ふたこと》三言《みこと》めには、「われ一個人にとりては」とことわる癖《くせ》あり。遽《にわか》にメエルハイムのかたへ向きて、「君がいひなづけの妻の待ちてやあるらむ、」といひぬ。「許し玉へ、少佐《しょうさ》の君。われにはまだ結髪《いいなずけ》の妻といふものなし。」「さなりや。我言《わがこと》をあしう思ひとり玉ふな。イイダの君を、われ一個人にとりてはかくおもひぬ。」かく二人の物語する間に、道はデウベン城の前にいでぬ。園《その》をかこめる低き鉄柵《てっさく》をみぎひ
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