望をかれに伝へ、これにいひ継がれて、あるは諫《いさ》められ、あるは勧められむ煩《わずら》はしさに堪《た》へず。いはんやメエルハイムの如く心浅々しき人に、イイダ姫嫌ひて避けむとすなどと、おのれ一人にのみ係ることのやうにおもひ做《な》されむこと口惜《くちお》しからむ。われよりの願と人に知られで宮づかへする手立《てだて》もがなとおもひ悩むほどに、この国をしばしの宿にして、われらを路傍の岩木などのやうに見もすべきおん身が、心の底にゆるぎなき誠をつつみたまふと知りて、かねて我身いとほしみたまふファブリイス夫人への消息《しょうそこ》、ひそかに頼みまつりぬ。」
「されどこの一件《ひとくだり》のことはファブリイス夫人こころに秘めて族《うから》にだに知らせ玉はず、女官の闕員《けついん》あればしばしの務《つとめ》にとて呼寄せ、陛下《へいか》のおん望《のぞみ》もだしがたしとて遂にとどめられぬ。」
「うき世の波にただよはされて泳ぐ術《すべ》知らぬメエルハイムがごとき男は、わが身忘れむとてしら髪《が》生やすこともなからむ。唯《ただ》痛ましきはおん身のやどりたまひし夜、わが糸の手とどめし童《わらべ》なり。わが立ちし後も、よなよな纜《ともづな》をわが窓の下に繋ぎて臥《ふ》ししが、ある朝《あした》羊小屋の扉のあかぬにこころづきて、人々岸辺にゆきて見しに、波虚しき船を打ちて、残れるはかれ草の上なる一枝《いっし》の笛のみなりきと聞きつ。」
かたりをはるとき午夜《ごや》の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の大休《おおやすみ》となり、妃はおほとのごもり玉ふべきをりなれば、イイダ姫あわただしく坐を起《た》ちて、こなたへ差しのばしたる右手《めて》の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の間《ま》に設けたる夕餉《スペー》に急ぐまらうど、群立ちてここを過ぎぬ。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、をりをり人の肩のすきまに見ゆる、けふの晴衣《はれぎ》の水いろのみぞ名残なりける。
底本:「舞姫・うたかたの記 他三篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年1月16日第1刷発行
1992(平成4)年3月5日第21刷発行
底本の親本:「鴎外全集第二巻」岩波書店
1971(昭和46)年12月刊
初出:「新著百種 第12号」吉岡書籍店
1891(明治24)年1月28日
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年3月21日作成
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