《けしき》を見てなかばいわせず。『世に貴族と生れしものは、賤《しず》やまがつなどのごとくわがままなる振舞い、おもいもよらぬことなり。血の権の贄《にえ》は人の権なり。われ老いたれど、人の情け忘れたりなど、ゆめな思いそ。向いの壁にかけたるわが母君の像を見よ。心もあの貌《かおばせ》のように厳《いつく》しく、われにあだし心おこさせたまわず、世のたのしみをば失いぬれど、幾百年の間いやしき血|一滴《ひとしずく》まぜしことなき家の誉《ほまれ》はすくいぬ』といつも軍人ぶりのことばつきあらあらしきに似ぬやさしさに、かねてといわんかく答えんとおもいし略《てだて》、胸にたたみたるままにてえもめぐらさず、ただ心のみ弱うなりてやみぬ」
「もとより父に向いてはかえすことば知らぬ母に、わがこころあかしてなににかせん。されど貴族の子に生れたりとて、われも人なり。いまいましき門閥、血統、迷信の土くれと看破《みやぶ》りては、わが胸のうちに投げ入るべきところなし。いやしき恋にうき身やつさば、姫ごぜの恥ともならめど、このならわしの外《と》にいでんとするを誰か支うべき。『カトリック』教の国には尼になる人ありといえど、ここ新教の
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