する」とわずかにいうに、男爵こなたに向きて、「それにつきては一条《ひとくだり》のもの語りあり、われもこよいはなにゆえか寝《いね》られねば、起きて語り聞かせん」とうべないぬ。
 われらはまだぬくまらぬ臥床《とこ》を降りて、まどの下なる小机にいむかい、煙草くゆらするほどに、さきの笛の音、また窓の外におこりて、たちまち断《た》えたちまちつづき、ひな鶯《うぐいす》のこころみに鳴くごとし。メエルハイムは謦咳《しわぶき》して語りいでぬ。
「十年《ととせ》ばかり前のことなるべし、ここより遠からぬブリョオゼンという村にあわれなる孤《みなしご》ありけり。六つ七つのときはやりの時疫《じえき》にふた親みななくなりしに、欠唇にていと醜かりければ、かえりみるものなくほとほと饑《う》えに迫りしが、ある日パンの乾きたるやあると、この城へもとめに来ぬ。そのころイイダの君はとおばかりなりしが、あわれがりて物とらせつ。もてあそびの笛ありしを与えて、『これ吹いてみよ』といえど、欠唇なればえふくまず。イイダの君、『あの見ぐるしき口なおして得させよ』とむつかりてやまず。母なる夫人聞きて、幼きものの心やさしゅういうなればとて医師
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