にて、「一個人、一個人」とあやしき声して呼ぶものあるに、おどろきてかえりみれば、この間の隅にはおおいなる鍼《はり》がねの籠《かご》ありて、そが中なる鸚鵡《おうむ》、かねて聞きしことある大隊長のことばをまねびしなりけり。姫たち、「あなあいにくの鳥や」とつぶやけば、大隊長もみずからこわ高に笑いぬ。
主人は大隊長と巻煙草《まきたばこ》のみて、銃猟の話せばやと、小部屋《カビネット》のかたへゆくほどに、われはさきよりこなたをうち守りて、珍らしき日本人にものいいたげなる末の姫に向いて、「このさかしき鳥はおん身のにや」とえみつつ問えば。「否、誰のとも定まらねど、われも愛《め》でたきものにこそ思い侍《はべ》れ。さいつころまでは、鳩あまた飼いしが、あまりに馴れて、身にまつわるものをばイイダいたく嫌《きら》えば、みな人にとらせつ。この鸚鵡のみは、いかにしてかあの姉君を憎めるがこぼれ幸《ざいわ》いにて、いまも飼われ侍り。さならずや」と鸚鵡のかたへ首さしいだしていうに、姉君憎むちょう鳥は、まがりたる嘴《はし》を開きて、「さならずや、さならずや」と繰り返しぬ。
このひまにメエルハイムはイイダひめのかたわらに居寄《いよ》りて、なにごとをかこい求むれど、渋りてうけひかざりしに、伯爵夫人も言葉を添えたもうと見えしが、姫つと立ちて「ピヤノ」にむかいぬ。下部《しもべ》いそがわしく燭《しょく》をみぎひだりに立つれば、メエルハイムは「いずれの譜をかまいらすべき」と楽器のかたわらなる小卓にあゆみ寄らんとせしに、イイダ姫「否、譜なくても」とて、おもむろに下す指尖《ゆびさき》タステンに触れて起すや金石の響き。しらべしげくなりまさるにつれて、あさ霞《がすみ》のごときいろ、姫が臉際《けんさい》にあらわれきつ。ゆるらかに幾尺の水晶の念珠《ねんじゅ》を引くときは、ムルデの河もしばし流れをとどむべく、たちまち迫りて刀槍《とうそう》ひとしく鳴るときは、むかし行旅をおびやかししこの城の遠祖《とおつおや》も百年《ももとせ》の夢を破られやせん。あわれ、この少女のこころはつねに狭き胸のうちに閉じられて、ことばとなりてあらわるる便《たつき》なければ、その繊々《せんせん》たる指さきよりほとばしり出ずるにやあらん。ただ覚ゆ、糸声の波はこのデウベン城をただよわせて、人もわれも浮きつ沈みつ流れゆくを。曲まさにたけなわになりて、この楽器のうちにひそみしさまざまの絃《いと》の鬼、ひとりびとりにきわみなき怨《うら》みを訴えおわりて、いまや諸声《もろごえ》たてて泣きとよむようなるとき、いぶかしや、城外に笛の音起りて、たどたどしゅうも姫が「ピヤノ」にあわせんとす。
弾《だん》じほれたるイイダ姫は、しばらく心づかでありしが、かの笛の音ふと耳に入りぬと覚しくにわかにしらべを乱りて、楽器の筐《はこ》も砕くるようなる音をせさせ、座をたちたるおもては、常より蒼かりき。姫たち顔見合せて、「また欠唇《いぐち》のおこなる業《わざ》しけるよ」とささやくほどに、外《と》なる笛の音絶えぬ。
主人の伯は小部屋《カビネット》より出でて、「ものくるおしきイイダが当座の曲は、いつものことにて珍らしからねど、君はさこそ驚きたまいけめ」とわれに会釈《えしゃく》しぬ。
絶えしものの音わが耳にはなお聞えて、うつつごころならず部屋へかえりしが、こよい見聞きしことに心奪われていもねられず。床をならべしメエルハイムを見れば、これもまださめたり。問わまほしきことはさはなれど、さすがに憚《はばか》るところなきにあらねば、「さきの怪しき笛の音は誰がいだししか知りてやおわする」とわずかにいうに、男爵こなたに向きて、「それにつきては一条《ひとくだり》のもの語りあり、われもこよいはなにゆえか寝《いね》られねば、起きて語り聞かせん」とうべないぬ。
われらはまだぬくまらぬ臥床《とこ》を降りて、まどの下なる小机にいむかい、煙草くゆらするほどに、さきの笛の音、また窓の外におこりて、たちまち断《た》えたちまちつづき、ひな鶯《うぐいす》のこころみに鳴くごとし。メエルハイムは謦咳《しわぶき》して語りいでぬ。
「十年《ととせ》ばかり前のことなるべし、ここより遠からぬブリョオゼンという村にあわれなる孤《みなしご》ありけり。六つ七つのときはやりの時疫《じえき》にふた親みななくなりしに、欠唇にていと醜かりければ、かえりみるものなくほとほと饑《う》えに迫りしが、ある日パンの乾きたるやあると、この城へもとめに来ぬ。そのころイイダの君はとおばかりなりしが、あわれがりて物とらせつ。もてあそびの笛ありしを与えて、『これ吹いてみよ』といえど、欠唇なればえふくまず。イイダの君、『あの見ぐるしき口なおして得させよ』とむつかりてやまず。母なる夫人聞きて、幼きものの心やさしゅういうなればとて医師
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング