族広間の上のはてに往《ゆ》き着きたまいて、国々の公使、またはその夫人などこれを囲むとき、かねて高廊の上《え》に控えたる狙撃連隊《そげきれんたい》の楽人がひと声鳴らす鼓とともに「ポロネエズ」という舞はじまりぬ。こはただおのおの右手《めて》にあいての婦人の指をつまみて、この間をひとめぐりするなり。列のかしらは軍装したる国王、紅衣のマイニンゲン夫人をひき、つづいて黄絹の裙引衣《すそひきごろも》を召したる妃にならびしはマイニンゲンの公子なりき。わずかに五十|対《つい》ばかりの列めぐりおわるとき、妃は冠《かんむり》のしるしつきたる椅子に倚《よ》りて、公使の夫人たちをそばにおらせたまえば、国王向いの座敷なるかるた卓《づくえ》のかたへうつりたまいぬ。
このときまことの舞踏はじまりて、群客《ぐんかく》たちこめたる中央の狭きところを、いと巧みにめぐりありくを見れば、おおくは少年士官の宮女たちをあい手にしたるなり。わがメエルハイムの見えぬはいかにとおもいしが、げに近衛ならぬ士官はおおむね招かれぬものをと悟りぬ。さてイイダ姫の舞うさまいかにと、芝居にて贔屓《ひいき》の俳優《わざおぎ》みるここちしてうち護《まも》りたるに、胸にそうびの自然花を梢《こずえ》のままに着けたるほかに、飾りというべきもの一つもあらぬ水色ぎぬの裳裾《もすそ》、せまき間をくぐりながらたわまぬ輪を画きて、金剛石の露こぼるるあだし貴人の服のおもげなるをあざむきぬ。
時うつるにつれて黄蝋の火は次第に炭の気《け》におかされて暗うなり、燭涙ながくしたたりて、床の上にはちぎれたる紗《うすぎぬ》、落ちたるはなびらあり。前座敷のビュッフェエにかよう足ようようしげくなりたるおりしも、わが前をとおり過ぐるようにして、小首かたぶけたる顔こなたへふり向け、なかば開けるまい扇に頤《おとがい》のわたりを持たせて、「われをばはや見忘れやしたまいつらん」というはイイダ姫なり。「いかで」といらえつつ、二足三足《ふたあしみあし》つきてゆけば、「かしこなる陶物《すえもの》の間見たまいしや、東洋産の花瓶《はながめ》に知らぬ草木鳥獣など染めつけたるを、われに釈《と》きあかさん人おん身のほかになし、いざ」といいて伴いゆきぬ。
ここは四方《よも》の壁に造りつけたる白石の棚《たな》に、代々の君が美術に志ありてあつめたまいぬる国々のおお花瓶《はながめ》、かぞうる指いとなきまで並べたるが、乳《ち》のごとく白き、琉璃《るり》のごとく碧《あお》き、さては五色まばゆき蜀錦《しょくきん》のいろなるなど、蔭になりたる壁より浮きいでて美《うる》わし。されどこの宮居に慣れたるまろうどたちは、こよいこれに心とどむべくもあらねば、前座敷にゆきかう人のおりおり見ゆるのみにて、足をとどむるものほとほとなかりき。
緋《ひ》の淡き地におなじいろの濃きから草織り出だしたる長椅子に、姫は水いろぎぬの裳《も》のけだかきおお襞《ひだ》の、舞のあとながらつゆくずれぬを、身をひねりて横ざまに折りて腰かけ、斜めに中の棚の花瓶を扇のさきもてゆびさしてわれに語りはじめぬ。
「はや去年《こぞ》のむかしとなりぬ。ゆくりなく君を文づかいにして、いや申すたつきを得ざりければ、わが身のこといかにおもいとりたまいけん。されどわれを煩悩の闇路《やみじ》よりすくいいでたまいし君、心の中には片時も忘れ侍らず」
「近ごろ日本の風俗書きしふみ一つ二つ買わせて読みしに、おん国にては親の結ぶ縁ありて、まことの愛知らぬ夫婦多しと、こなたの旅人のいやしむようにしるしたるありしが、こはまだよくも考えぬ言《こと》にて、かかることはこのヨオロッパにもなからずやは。いいなずけするまでの交際《つきあい》久しく、かたみに心の底まで知りあう甲斐《かい》は否《いな》とも諾《う》ともいわるるうちにこそあらめ、貴族仲間にては早くより目上の人にきめられたる夫婦、こころ合わでもいなまんよしなきに、日々にあい見て忌むこころあくまで募りたるとき、これに添わする習い、さりとてはことわりなの世や」
「メエルハイムはおん身が友なり。悪《あ》しといわば弁護もやしたまわん。否、われとてもその直《すぐ》なる心を知り、貌《かたち》にくからぬを見る目なきにあらねど、年ごろつきあいしすえ、わが胸にうずみ火ほどのあたたまりもできず。ただいとうにはゆるは彼方《あなた》の親切にて、ふた親のゆるしし交際《つきあい》の表、かいな借さるることもあれど、ただ二人になりたるときは、家も園もゆくかたものういぶせく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがとうなりぬ。なにゆえと問いたもうな。そを誰か知らん。恋うるも恋うるゆえに恋うるとこそ聞け、嫌うもまたさならん」
「あるとき父の機嫌よきをうかがい得て、わがくるしさいいいでんとせしに、気色
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