権謀をも、其他のあらゆる直接間接の手段をも避けない。女を盗み出したとか、待伏して奪つたとか云ふ噂もあつた。併しそれがいつも密《ひそ》かに計画して、巧みに実施せられるので、世間には只ぼんやりした流言が伝はつてゐる丈で、証拠や事実の挙げられたことは無い。己はさう云ふ催しのある所へ来たのでは無いかと思つたので、手紙を受け取つたら、なるべく早く此別荘を立ち去らうと決心した。手紙はロオマとパリイとに宛てゝ書いて貰ふ筈だつた。実は己はどちらへ先に往かうかと迷つて、どうもフランスの方へ心が引かれるやうに感じてゐたのだ。
このどちらを先きにしようかと云ふ問題の得失を、とつおいつして考へて見ながら、己は此間《このま》にあつた大鏡に姿をうつして、自分の風采の好いのを楽んでゐた。絹の上衣、刺繍のしてあるチヨキ、帯革に金剛石を鐫《ちりば》めた靴、この総ては随分立派で、栄耀《ええう》に慣れた目をも満足させさうに見える。己の目の火のやうな特別な光も人を誘《いざな》ふには十分だ。これ丈の服装と容貌とを持つてゐれば、幸福の女神《ぢよしん》に対して、極《ごく》大胆な要求をしても好ささうだ。噂に聞けば、フランスの美人は或る風姿や態度の細かい所に気が附いて、その欲望にかなふやうにしてゐれば、決して情を通ずるに吝《やぶさか》でないさうだ。それに己はヱネチア製の首飾の鎖や、レエスや、小さい肖像を嵌めた印籠を、沢山|為入《しい》れて持つて来た。女に贈る品物にも事は闕かない。
己は庭に降りて歩きながら、自分がきつと経験するに極まつてゐる千差万別の奇遇の事を想像した。無論その相手は女である。己は目の前に恋愛の美しい幻影が新に現ずるのを見た。恋愛なぞと云ふものは、どこの国でも同じ事で、風俗習慣に従つて変態を生ずることは少いと云ふことを、己はまだ悟つてゐなかつたのだ。なんでも自分に千万無量の奇蹟や、意外の出来事が発見せられるやうに思つて、其間に何の疑をも挾《さしはさ》まなかつた。己は忽然《こつぜん》強烈な欲望を感じた。そしてもう自分がその物語めいた境界に身を置いてゐるやうに思つた。若し此刹那に己を呼び醒まして、お前はまだヱネチアを距《さ》ること数|哩《マイル》の議官アンドレア・バルヂピエロの別荘にゐるのではないかと云ふものがあつたら、己は何よりも奇怪な詞《ことば》としてそれを聞いただらう。そんな風に自分の平生の活計と慣熟した境遇とを脱離したやうな感じが、己の胸一ぱいになつてゐたので、自分が極めて奇怪な極めて愉快な目的に向つて往くのだと云ふことが、己には争ふべからざる事実のやうに思はれた。こんな我ながら不思議な期待の情のお蔭で、現在の心で観察すれば、尋常一般の物が皆異様の形相を呈するやうに見えた。今歩いてゐる、細かい粒の揃つた砂の敷いてある庭の小径も、一曲り曲つた向うには、意外な眺望が展開しはせぬかと疑はれた。円形に苅り込んである「あさまつげ」の木を見れば、そのこんもりした緑の中にも秘密が蔵してありはせぬかと疑はれた。
かう云ふ心持で己は或る岩窟《いはむろ》の前に来た。入口は野生の葡萄が鎖してゐる。もう日は瑣《やゝ》西に傾いてゐるが、外は暑いから、常なら己は只涼しい蔭を尋ねて其中に這入つただらう。然るに此時入口を這入る己の心の臓は跳つた。この田舎めいた岩窟の中の迂回した道を歩いて行つたら、際限の無い不思議のある処、又事によつたら己の生涯の禍福が岐《わか》れる処に出はせぬかと思つたからだ。
岩窟の中は涼しくて愉快であつた。湿つた石壁に凝《こ》つて滴《した》たる水が流れて二つの水盤に入る。寂しい妄想《まうざう》に耽りながら此中の道を歩く人に伴侶を与へるためか、穹窿《きうりう》には銅で鋳た種々《いろ/\》の鳥獣《とりけもの》が据ゑ附けてある。最初這入つた一室の奥には第二の瑣暗い室がある。その又奥には第三の全く暗い室がある。こゝでは只水の滴たり落ちる声が聞える。それがこの寂寞の境の単調な時間の推移を示す天然の漏刻《ろうこく》かとあやまたれる。床《とこ》にはひどい凸凹《とつあふ》がある。己は闇の中を辿つて行くうちに足を挫きさうになつた。その先きは低い隧道《すゐだう》になつたので、己は腰を屈《かゞ》めて進んだ。折々岩角が肩に触れる。暫く歩くうちに屈めた腰が疲を覚えて来た。己は推測した。多分此道はわざと難渋にしてあるのだらう。こゝを通り過ぎて、又日の目を見、軽らかな空気を呼吸する時の喜を大きくするために、わざと難渋にしてあるのだらうと云ふのである。此推測は吾を欺かなかつた。潜り抜けて出た処は、絶勝の地点で庭園の全体は勿論、別荘の正面と其|石柱《いしばしら》の美しい排列とをも見わたすやうになつてゐる。晴れ切つた空を、別荘の屋根の線がかつきりと横断してゐる。己はこれを眺めながら、あさまつげの苦味のある香《か》と、柑子《かうじ》の木の砂糖のやうに甘い匂とを吸つてゐた。
己は此二様の香気を嗅いでゐるうちに、ふと妙な事に気が附いた。それは別荘の窓は悉《こと/″\》く開け放つてあるのに、只一箇所の窓丈鎖してあると云ふ事である。熟《よ》く視れば、この二つの窓は重げな扉で厳重に閉ぢてある。全体の正面は開けた窓の硝子《ガラス》に日光がさして光つてゐる。この二つの密閉した窓丈が暗い。なぜだらうか。己が怪訝《くわいが》の念を禁じ得ずして立つてゐると、己の肩の上に誰やらの手が置かれた。それは主人バルヂピエロの手であつた。主人は今一つの手には己のために書いた紹介状を持つてゐて、それを己にわたした。
二
己は礼を言つて、すぐに出立しようとした。まだノレツタまで往つて泊られる丈の日足は十分あつたのだ。ところが意外にも主人は己を留《と》めて一晩泊らせようと云つた。己はとう/\主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人は己にまだ見なかつた所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄が、砂の上を曳いてゐる。そして手には長い杖を衝いてゐて、折々その握りの処を歯で噬《か》む癖がある。
バルヂピエロはまだ杖に縋つて歩くやうな体では無い。綺麗に剃つた頬に刈株のやうな白い髯の尖が出掛かつてはゐるが、体は丈夫でしつかりしてゐる。己達は緑の木立に囲まれた立像の前に足を駐めた。主人はその裸体を褒めたが、其|詞《ことば》は此人が形の美を解してゐると云ふことを証する詞であつた。その外主人は杖の握りに附いてゐる森のニンフをも褒めたが、その褒めかたに己は殊に感服した。そのニンフの彫物《ほりもの》は、主人の太い、荒々しい手で握つてゐる杖の頭《かしら》に附いてゐて、指の間からはそれを鋳た黄金《わうごん》がきら附いてゐるのである。
そのうち食事の時刻になつた。奢《おごり》を極めた食事で、随分時間が長く掛かつた。己達の食卓に就いたのは、周囲の壁に鏡を為込《しこ》んだ円形の大広間であつた。給仕は黒ん坊で、黙つて音もさせずに出たり這入つたりする。その影が鏡にうつつて、不思議に大勢に見えるので、己はなんだか物に魅せられたやうな心持がした。黒ん坊は※[#「糸へん+求」、第4水準2−84−28、91−下−7]《ちゞ》れた毛の上に黄絹《きぎぬ》の帽を被《かぶ》つてゐる。帽の上には鷺の羽がゆら/\と動いてゐる。耳には黄金の環が嵌めてある。黒い手で注いでくれるのは、己の大好なジエンツアノの葡萄酒だ。己はそれを飲めば飲む程機嫌が好くなつたが、主人の顔は見る見る陰気になつた。己に盛んに飲食させながら、主人は杯にも皿にも手を着けずにゐる。併し此場合に己の食機《しよくき》の振《ふる》つたのは、矢張模範として好い事かと思ふ。無論旅をして腹を空かしてゐるので、不断より盛んに飲食したには違ひない。併しそればかりでは無い。一体世間を広く渡つた人の言つてゐる事が※[#「言べん+虚」、第4水準2−88−74、92−上−1]でないなら、己は今にもどんな事に出逢ふかも知れず、又その出逢ふかも知れぬ事が千差万別なのだから、己はしつかり腹を拵へて掛かるべき身の上ではあるまいか。兎に角己はいつに無い上機嫌になつて来た。己は酒に逆《のぼ》せて、顔が健《すこ》やかな濃い紅《くれなゐ》に染まつた。それを主人は妬ましげに見てゐるらしい。心身共に丈夫な主人の事だから、誰をも妬むには及ばぬ筈なのに。
主人は岩畳なには相違ない。併し明るい燈《ともしび》の下でつく/″\見てゐると、どうも顔に疲労の痕が現れてゐるやうに思はれた。庭を余り久しく散歩した為めか、それとも外に原因があるのか。此人は見掛けが丈夫らしくても、どこか悪い処があるのだらうか。バルヂピエロの年齢はもう性命を維持して行く丈の力しか無くなる頃になつてゐる。あれでも若し将来に於いて自分にふさはしい限の事をしてゐたら、まだ長く体を保つて行かれるだらう。然るにこのバルヂピエロはもう若いもので無いと諦念《あきらめ》を附けることの出来ない人として、世間の人に知られてゐる。此人は今も機会があつたら若いものの真似をしようとしてゐる。自分では控目にしてゐるのかも知れぬが、それでもその冒険が度を過ぎてゐるらしい。
いろ/\話をしてゐるうちに、己がかうではあるまいかと思ひ遣つたやうな事を、主人が公然打ち明けて訴へ出した。己を為合《しあは》せだと云つて褒めて、それを自分の老衰に較べた。その口吻《こうふん》が特別に不満らしかつた。己は気を着けて聞いてはゐない。己の考では、それはどうせ人間の一度は出逢ふ運命で、人間は早晩さうなると云ふことを知つて、さうならぬうちに早く出来る丈の快楽を極めるが好いのだ。そこで己は話をしながらも盛んにジエンツアノの葡萄酒を飲み続けて、肴には果物を食つた。その果物は黒ん坊が銀の針金で編んだ籠に盛つて持つて来たのだ。己は果物の旨いのを機会として、主人に馳走の礼を言つた。主人がこれに答へた辞令は頗る巧なものだつた。余り思ひ設けぬ来訪に逢つたので、心に思ふ程の馳走をすることが出来ない。只庭を見せて食事を一しよにする位の事で堪忍して貰はんではならない。その食事も面白い相客を呼び集める余裕は無いから、自分のやうな不機嫌な老人を相手にして我慢して貰はんではならない。せめて音楽でもあると好いのだが、それも無いと云ふのだつた。己はかう云ふ返事をした。相客や音楽は決して欲しくは無い。先輩たる主人と差向ひで静に食事をするのが愉快だ。只主人の清閑を妨げるのでは無いかと云ふ事丈が気に懸かる。勿論かう云ふ機会に聞く有益な話が、どれ丈自分の為めになると云ふことは知つてゐると云つた。主人は項垂《うなだ》れて聞いてゐたが、己の詞が尽きると頭を挙げた。そしてかう云つた。お前の礼儀を厚うした返事を聞いて満足に思ふ。お前も今さう云つてゐる瞬間には、その通りに感じてゐるかも知れない。併しも少しするとお前の考が変るだらう。それはお前が一人で敷布団と被布団《きぶとん》との間に潜り込む時だ。若いものにはさう云ふ事は向くまい。殊に女に可哀《かはい》がられる若いものにはと、主人は云つた。
女と云ふ詞を聞くと同時に、なぜだか自分にも分からぬが、さつき見て気になつた、鎖してある窓の事が思ひ出された。己は主人の顔を見た。今此座敷にゐるものは主人と己との二人切りで、給仕の黒ん坊はゐなくなつてゐる。己には天井から吊り下げてある大燭台がぶら/\と揺れてゐるやうな気がする。そして其影が壁の鏡にうつつて幾千の燭火《ともしび》になつて見える。己はもうジエンツアノの葡萄酒を随分飲んでゐる。そして今主人の何か言ふのに耳を傾けながら、ピエンツアの無花果《いちぢく》の一つを取つて皮をむいてゐる。己はその汁の多い、赤い肉がひどく好きなのだ。
主人の詞が己の耳には妙に聞える。なんだか己の前にゐる主人の口から出るのではなくて、遠い所から聞えて来るやうだ。周囲の壁に嵌めてある許多《あまた》の鏡から反射してゐる大勢の主人が物を言つてゐるやうにも思はれる。それにその詞の中で己に提供してゐる事柄には、己は随分驚かされた。尤《もつとも》当時の己の意識は此驚きをもはつきり領
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