復讐
アンリ・ド・レニエエ(Henri de Re[#「e」にアクサン‐テギュ]gnier)
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)己《おれ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一本|背後《うしろ》へ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「元へん+りっとう」、第3水準1−14−60、82−下−13]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぬる/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

 バルタザル・アルドラミンは生きてゐた間、己《おれ》が大ぶ精《くは》しく知つてゐたから、己が今あの男に成り代つて身上話をして、諸君に聞かせることが出来る。もうあれが口は開く時は無い。笑ふためにも歌ふためにも、ジエンツアノの葡萄酒を飲むためにも、ピエンツアの無花果《いちぢく》を食ふためにも、その外の事をするためにも、永遠に開く時は無い。なぜと云ふに、あれはサン・ステフアノの寺の石畳みの下に眠つてゐるからである。両手を胸の創口の上に組み合せて眠つてゐる。此創が一七七九年三月三日にあれが若い命を忽然《こつぜん》絶つてしまつたのである。
 バルタザルは三十になり掛けてゐた。丁度バルタザルの父と己の父とが小さい時から近附きになつてゐたやうに、バルタザルと己とも早くから親しい友達になつてゐた。己達二人は殆ど同時に父を喪つた。その亡くなつた父も略《ほゞ》同年位であつた。あれが館《やかた》と己の館とは隣同士になつてゐて、二つの館が同じ運河の水に影をうつして、変つた壁の色を交ぜ合つてゐた。バルタザルが館の正面は白塗で、それに大さの違ふ淡紅色《たんこうしょく》の大理石で刻んだロゼツトが二つ嵌めてあつた。それが化石した花のやうに見えた。己の家族の住んでゐる館、即ちヰマニ家の館は、壁が赤み掛かつた色に塗つてあつた。館から運河に降りる石階《せきかい》の上の二段は、久しく人に踏まれて※[#「元+りっとう」、第3水準1−14−60、82−下−13]《ち》びてすべつこくなつてゐた。上から三段目は水に漬《つか》つたり水の上に出たりするので、湿つてぬる/\してゐた。
 大抵バルタザルは毎日此石階に出た。朝か昼か、さうでないと松明《たいまつ》の光に照されて晩に出た。あれが己の館の石階に片足を踏み掛ける時、反対の足に力が入ると、乗つて来たゴンドラの舟がごぼ/\と揺れた。己はあれが石階の上から呼ぶ声を聞いた。あれは随分善く話して善く笑ふ男であつた。あれも己も少しも拘束せられずに青春を弄んでゐたのである。大抵遊びの場所へ己を引き出すのはあれが首唱の力であつた。あれは強い熱心と変つた工夫とを以て遊びを試みる男であつた。受用はあれが性命の核心になつてゐたので、あれはそれを多く味はふために夜を以て日に継いだ。その遊びの中で主位を占めてゐたものは恋愛であつた。
 バルタザルは女に好かれた。そして己を好いてくれた。それだから宴会の席でも散歩の街でもあれと己とは離れずにゐた。そこで二人が一層離れずにゐられるやうに、あれと己とは友達同士になつてゐる女を情人にした。偶《たま》に情人と分かれてゐる時は、二人は中洲へ往つて魚や貝の料理を食つた。凡そ市にありとあらゆる肉欲に満足を与へる遊びには、己達二人の与《あづか》らぬことは無い。そしてそんな遊びの多いことは言《げん》を須《ま》たない。尼寺の応接所に二人が据わつて、干菓子をかじつたり、ソルベツトを啜つたりしながら、尼達の饒舌《しやべ》るのを聞いて、偸目《ぬすみめ》をして尼達の胸の薄衣《うすぎぬ》の開《あ》き掛かつてゐる所をのぞいてゐたことは幾度《いくたび》であらう。二人が賭博の卓に倚つて、人の金を取つたり、人に金を取られたりしてゐたことも幾晩であらう。カルネワレの祭の頃、二人で町中《まちなか》を暴《あ》れ廻り跳ね廻つたのも幾度であらう。仮装舞踏に一しよに往つて、一しよにそこから帰る時は、二人の外套の袖と袖とが狭い巷《こうぢ》で触れ合つたものである。彼誰時《たそがれどき》の空には星の色が褪め掛かる。運河の岸まで歩いて来ると、潮気のある風が海から吹いて来て、二人の着物の裾を翻《ひるがへ》す。二人は色々に塗つた仮面の下の熱した頬の上に、暁の冷たい息を感じたのである。
 こんな風に己達の青春は過ぎた。ヱネチアの少女等は恋愛でこれに味を附けて過させてくれた。波の上をすべるゴンドラの舟が、ひまな己達の体をゆすつてくれた。歌の声や笑声が、柔かい烈しさで己達のひまな時間を慰めてくれた。その時の反響がまだ己の耳の底に残つてゐる。こんな楽しかつた日の記念の数々は、運河のうねりの数々よりも多く、その記念のかゞやきは、運河の水の光より強い。今から思つて見ても、あの生活を永遠に継続することが出来たなら、己は別に何物をも求めようとはしなかつただらう。あの生活をどう変更しようと云ふ欲望は、己には無かつただらう。只目の前にゐる美しい女の微笑《ほほゑみ》が折々変つて、その唇が己に新なる刺戟を与へてくれさへしたら、己はそれに満足してゐただらう。
 併しバルタザルはさうは思はなかつた。己の胸はあれが館の窓々が鎖されて、只白壁の上に淡紅色の大理石の花ばかりが開くやうに見えてゐた時、どんなにか血を流しただらう。バルタザルは遠い旅に立つた。世間を見ようと思つたのである。あれは三年の間遠い所にゐた。そして去る時飄然として去つたやうに、或る日、又飄然として帰つて来た。朝が来れば、あれの声が石階の上から又己を呼ぶ。晩にはあれと己とが又博奕の卓を囲む。己達は又昔の通りの生活を始めた。そのうち或る日不思議な出来事があつて、あれを永遠に復《ま》た起つことの出来ないやうにしてしまつた。それからと云ふものは、あれはサン・ステフアノの寺の石畳みの下に眠つてゐる。両手を胸の創口の上に組み合せて眠つてゐる。
 それだから己の口から今諸君にあれが身上話をしなくてはならぬことになつた。そこで己、ロレンツオ・ヰラミは諸君にことわつて置くが、己の話すのは、己の確かに知つてゐる事でほ無い。只あれが不思議な死を説明するために、己の推察したあれが生涯である。只或る夜、幹の赤い縦の木の林で、己の友人のヱネチア人、バルタザル・アルドラミンが己に囁いだやうに思はれた伝記である。
     ――――――――――――
 ロレンツオや、聞いてくれ。或る日の事であつた。己(バルタザル)は情人バルビさんと一しよにスキアヲニ河の岸に立つてゐた。バルビさんは日の当たる所にゐるのが好きだつた。それは髪が金色をしてゐて、それが日に照されると、美しく光るからだ。その光るのが己の気に入ると思つてゐたからだ。なんでも自分の美しい所を己に見せて、己に気に入るやうにと努めてゐたのだ。そこでなる丈久しく日の当たる所にゐようと思つて、自分のまはりを飛び廻つてゐる鳩に穀物を蒔いて遣るのが面白いと云つた。バルビさんの手から散る粒は、金色の雨が降るやうに見えた。併し己にはバルビさんは容色が余り気に入つてゐなかつたので、それを眺めてゐる代りに、その手から餌を貰つてゐる小鳥を見てゐた。十二羽位もゐただらう。羽は滑かで、足には鱗が畳なつてゐて、吭《のど》は紫掛かつて赤く、嘴は珊瑚色をしてゐる。皆むく/\太つてゐるのに、争つて粒を啄《ついば》んでゐる。この卑しい餌を食ふのが得意らしい。そのうち鳩は仲間を呼び寄せた。仲間が密集してそこへおろして来た。このとたんに己は目を転じて赫くラクナの水を見た。一羽の大きい純白な鴎が咳嗄《しはが》れた声をして鳴きながら飛んで通つた。鋭い翼で風を截つて、力強く又素早く飛ぶ。己は此時鳩と鴎との懸隔に心附いて、己の身の上を顧みた。なんだかあの水鳥が己に尊い訓誨を垂れてくれたやうであつた。けふはこゝに、あすは遠方に、いつも活動してゐる水鳥の気象は、毎日暖い敷石の上で僥倖の餌を争つてゐる鳩とは違ふと思つた。ロレンツオや、聞いてくれ。己はこの鳥の寓言を理解したのだ。
 ロレンツオや。己は即日世間へ出て、その千態万状の間に己の楽を求めようと発意《ほつい》した。先づ己の第一の最愛の友たるお前を回抱《くわいはう》して別を告げた。次にバルビさんに暇乞をした。それから銀行へ往つた。そして喜んで己の命を聴く役人共の手に金をわたした。どこへ往つてもたつぷり金を賭けて、博奕をして、土地の流行《はやり》の衣服《きもの》を着て、その外勝手な為払《しはらひ》をするに事足る程の金をわたした。
 それから出立した。ゴンドラの舟に身を托して陸に上つた。ヱネチアの運河の網は、少し乗り廻つてゐると、川筋がちよつと曲がると思ふや否や、元の所に帰つてゐる。なんだか自分が往来で自分に出逢ふやうな気がする。それに今陸に上《のぼ》つて見ると、これから真直にどこまででも行かれる。元の所に帰るやうな虞《おそれ》は無い。これまでとは大ぶ工合が違ふ。ずん/\歩いて行くうちには、きつと何か新しい事に出逢ふに違ひ無い。乗つてゐる馬車からして己には面白い。巌畳に出来てゐて、場席《ばせき》も広い。己は先づゆつたりと身をくつろげた。車の輪が一廻転する毎に、並木の木が一本|背後《うしろ》へ逃げる毎に、己は今までに知らぬ歓喜を覚えた。一匹の小犬が己の馬車に附いて走りながら、己の顔を見てひどくおこつて吠える。己はそれを見て、涙の出る程笑つた。そんな風で、どんな瑣細な事でも、己に面白く無いものは無かつた。
 己は親類の老人アンドレア・バルヂピエロの別荘に泊る積りであつた。別荘はメストレから五時間行程の所にある。己はアンドレアに暇乞をしに寄つて、一晩泊らうと思つたのだ。別荘の建築は物好を尽したもので、庭園も立派だ。庭園は主人の老議官が自分で手を入れて、絶えず大勢の植木屋を使つてゐる。主人は大抵此別荘にばかりゐる。土地の空気は好い。主人が人間の齢《よはひ》の尋常の境を※[#「しんにゅう+向」、第3水準1−92−55、87−上−2]《はる》かに越してゐて、老後に罹り易い病のどれにも罹らずに、壮んな気力を養つてゐるのは、好い空気の賜《たまもの》である。主人は生涯に赫々たる功名を遂げた人である。広く世間を見た人である。主人は一面剛毅な人で、一面又温和な人であつたから、随分種々の女をも愛した。国々の女を一々|験《ため》してゐる。別荘の部屋や庭にゐて、余り世間へ顔を出さぬが、主人はまだ頗る立派な風采をしてゐる。
 さう云ふ交際を好まぬ人ではあるが、主人は好意を以て己を迎へてくれた。只その顔の表情にどこやら不安の影があるのに、己は気が附いた。物を言ふ間にも、白髪かつらの長い毛の端を口に銜《くは》へて咬んでゐる。己が此度の旅立の事、その旅の目的の事なぞを話して聞かす間も、主人はぢつとして聞いてゐられぬらしい。
 己が話してしまふと、主人は旅立をすると云ふことにも、何を旅の目的にすると云ふことにも同意してくれて、何かの用に立つだらうと云つて手紙を二三通くれる約束をした。それからその手紙を書くと云つて席を起つた。長い廊下の果に、主人の花紋《くわもん》を印《いん》した上衣《うはぎ》の後影が隠れた。上衣の裾は軽《かろ》く廊下の大理石の上を曳いて、跡には麝香《じやかう》と竜涎香《りうえんかう》との匂を残した。
 己は此香気と、さつき己の来たのを見て不快を掩ひ得なかつたらしい態度とを思ひ合せて、多分主人が色気のある催をしてゐる最中に、己は飛び込んで来たので、邪魔になるのだらうと推察した。昔久しい間自分の主な為事《しごと》にしてゐた色気のある事を、主人がまだ断つてゐないと云ふことは、主人の年が積もつてゐるにも拘はらず、世間で認めてゐる。甚しきに至つてはこの目的のためには、主人は或る冒険をも敢てするので、女房妹を持つてゐる人は主人を怖れてゐるとさへ云ふものがある。さう云ふ噂をする人に聞けば、主人は目的を達するために、暴力をも
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