ア・バルヂピエロの別荘に泊る積りであつた。別荘はメストレから五時間行程の所にある。己はアンドレアに暇乞をしに寄つて、一晩泊らうと思つたのだ。別荘の建築は物好を尽したもので、庭園も立派だ。庭園は主人の老議官が自分で手を入れて、絶えず大勢の植木屋を使つてゐる。主人は大抵此別荘にばかりゐる。土地の空気は好い。主人が人間の齢《よはひ》の尋常の境を※[#「しんにゅう+向」、第3水準1−92−55、87−上−2]《はる》かに越してゐて、老後に罹り易い病のどれにも罹らずに、壮んな気力を養つてゐるのは、好い空気の賜《たまもの》である。主人は生涯に赫々たる功名を遂げた人である。広く世間を見た人である。主人は一面剛毅な人で、一面又温和な人であつたから、随分種々の女をも愛した。国々の女を一々|験《ため》してゐる。別荘の部屋や庭にゐて、余り世間へ顔を出さぬが、主人はまだ頗る立派な風采をしてゐる。
 さう云ふ交際を好まぬ人ではあるが、主人は好意を以て己を迎へてくれた。只その顔の表情にどこやら不安の影があるのに、己は気が附いた。物を言ふ間にも、白髪かつらの長い毛の端を口に銜《くは》へて咬んでゐる。己が此度の旅立の事、その旅の目的の事なぞを話して聞かす間も、主人はぢつとして聞いてゐられぬらしい。
 己が話してしまふと、主人は旅立をすると云ふことにも、何を旅の目的にすると云ふことにも同意してくれて、何かの用に立つだらうと云つて手紙を二三通くれる約束をした。それからその手紙を書くと云つて席を起つた。長い廊下の果に、主人の花紋《くわもん》を印《いん》した上衣《うはぎ》の後影が隠れた。上衣の裾は軽《かろ》く廊下の大理石の上を曳いて、跡には麝香《じやかう》と竜涎香《りうえんかう》との匂を残した。
 己は此香気と、さつき己の来たのを見て不快を掩ひ得なかつたらしい態度とを思ひ合せて、多分主人が色気のある催をしてゐる最中に、己は飛び込んで来たので、邪魔になるのだらうと推察した。昔久しい間自分の主な為事《しごと》にしてゐた色気のある事を、主人がまだ断つてゐないと云ふことは、主人の年が積もつてゐるにも拘はらず、世間で認めてゐる。甚しきに至つてはこの目的のためには、主人は或る冒険をも敢てするので、女房妹を持つてゐる人は主人を怖れてゐるとさへ云ふものがある。さう云ふ噂をする人に聞けば、主人は目的を達するために、暴力をも
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