、それを眺めてゐる代りに、その手から餌を貰つてゐる小鳥を見てゐた。十二羽位もゐただらう。羽は滑かで、足には鱗が畳なつてゐて、吭《のど》は紫掛かつて赤く、嘴は珊瑚色をしてゐる。皆むく/\太つてゐるのに、争つて粒を啄《ついば》んでゐる。この卑しい餌を食ふのが得意らしい。そのうち鳩は仲間を呼び寄せた。仲間が密集してそこへおろして来た。このとたんに己は目を転じて赫くラクナの水を見た。一羽の大きい純白な鴎が咳嗄《しはが》れた声をして鳴きながら飛んで通つた。鋭い翼で風を截つて、力強く又素早く飛ぶ。己は此時鳩と鴎との懸隔に心附いて、己の身の上を顧みた。なんだかあの水鳥が己に尊い訓誨を垂れてくれたやうであつた。けふはこゝに、あすは遠方に、いつも活動してゐる水鳥の気象は、毎日暖い敷石の上で僥倖の餌を争つてゐる鳩とは違ふと思つた。ロレンツオや、聞いてくれ。己はこの鳥の寓言を理解したのだ。
ロレンツオや。己は即日世間へ出て、その千態万状の間に己の楽を求めようと発意《ほつい》した。先づ己の第一の最愛の友たるお前を回抱《くわいはう》して別を告げた。次にバルビさんに暇乞をした。それから銀行へ往つた。そして喜んで己の命を聴く役人共の手に金をわたした。どこへ往つてもたつぷり金を賭けて、博奕をして、土地の流行《はやり》の衣服《きもの》を着て、その外勝手な為払《しはらひ》をするに事足る程の金をわたした。
それから出立した。ゴンドラの舟に身を托して陸に上つた。ヱネチアの運河の網は、少し乗り廻つてゐると、川筋がちよつと曲がると思ふや否や、元の所に帰つてゐる。なんだか自分が往来で自分に出逢ふやうな気がする。それに今陸に上《のぼ》つて見ると、これから真直にどこまででも行かれる。元の所に帰るやうな虞《おそれ》は無い。これまでとは大ぶ工合が違ふ。ずん/\歩いて行くうちには、きつと何か新しい事に出逢ふに違ひ無い。乗つてゐる馬車からして己には面白い。巌畳に出来てゐて、場席《ばせき》も広い。己は先づゆつたりと身をくつろげた。車の輪が一廻転する毎に、並木の木が一本|背後《うしろ》へ逃げる毎に、己は今までに知らぬ歓喜を覚えた。一匹の小犬が己の馬車に附いて走りながら、己の顔を見てひどくおこつて吠える。己はそれを見て、涙の出る程笑つた。そんな風で、どんな瑣細な事でも、己に面白く無いものは無かつた。
己は親類の老人アンドレ
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