り。相澤の助にて日々の生計には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。
 後に聞けば彼は相澤に逢ひしとき、余が相澤に與へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豐太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵《たふ》れぬ。相澤は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髮をむしり、蒲團を噛みなどし、また遽に心づきたる樣にて物を探り討《もと》めたり。母の取りて與ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を與へたるとき、探りみて顏に押しあて、涙を流して泣きぬ。
 これよりは騷ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廢して、その痴《おろか》なること赤兒の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心勞にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聽かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをり/\
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