にベルリンに帰りしは、恰《あたか》も是れ新年の旦《あした》なりき。停車場に別を告げて、我家をさして車を駆《か》りつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐《とゞ》まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁《ぎよてい》に「カバン」持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我|頸《うなじ》を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭《ひげ》の内にて云ひしが聞えず。「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。」
 我心はこの時までも定まらず、故郷を憶《おも》ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一|刹那《せつな》、低徊踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ていくわいちちう》の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭《かしら》は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
「幾階か持ちて行くべき。」と鑼《どら》の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり
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