つ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我心を厚く信じたれば。
鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き礼服、新に買求めたるゴタ板の魯廷《ろてい》の貴族譜、二三種の辞書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護《うしろめた》かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出《いだ》しやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
魯国行につきては、何事をか叙すべき。わが舌人《ぜつじん》たる任務《つとめ》は忽地《たちまち》に余を拉《らつ》し去りて、青雲の上に堕《おと》したり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞《ゐねう》せしは、巴里絶頂の驕奢《けうしや》を、氷雪の裡《うち》に移したる王城の粧飾《さうしよく》、故《ことさ》らに黄蝋《わうらふ》の燭《しよく》を幾つ共なく点《とも》したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、
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