生路は概《おほむ》ね平滑なりしに、轗軻《かんか》数奇《さくき》なるは我身の上なりければなり。
 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡※[#二の字点、1−2−22]驚きしが、なか/\に余を譴《せ》めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢《をは》りしとき、彼は色を正して諫《いさ》むるやう、この一段のことは素《も》と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活《なりはひ》をなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦《また》伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強《しひ》て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者《きよくひもの》なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦《すゝ》むるは先づ其能を示すに若《し》かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。是《こ》れその言
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