舞姫
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)早《は》や

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)余|一人《ひとり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]《まど》に

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)すが/\しく
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 石炭をば早《は》や積み果てつ。中等室の卓《つくゑ》のほとりはいと静にて、熾熱燈《しねつとう》の光の晴れがましきも徒《いたづら》なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌《カルタ》仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余|一人《ひとり》のみなれば。
 五年前《いつとせまへ》の事なりしが、平生《ひごろ》の望足りて、洋行の官命を蒙《かうむ》り、このセイゴンの港まで来《こ》し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新《あらた》ならぬはなく、筆に任せて書き記《しる》しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日《けふ》になりておもへば、穉《をさな》き思想、身の程《ほど》知らぬ放言、さらぬも尋常《よのつね》の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記《にき》ものせむとて買ひし冊子《さつし》もまだ白紙のまゝなるは、独逸《ドイツ》にて物学びせし間《ま》に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
 げに東《ひんがし》に還《かへ》る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶《なほ》心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰《たれ》にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
 嗚呼《あゝ》、ブリンヂイシイの港を出《い》でゝより、早や二十日《はつか》あまりを経ぬ。世の常ならば生面《せいめん》の客にさへ交《まじはり》を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習《ならひ》なるに、微恙《びやう》にこ
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