」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談のようにいおうと心に思ったのが、はからずも真面目に声に出たので、くやしいような心持がした。
 渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。
“Kosinski《コジンスキイ》 soll《ゾル》 leben《レエベン》 !”
 凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほど顫《ふる》っていた。

     ×    ×    ×

 まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面《おもて》を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
[#地から1字上げ]明治四十三年六月



底本:「日本の文学 2 森鴎外(一)」中央公論社
   1966(昭和41)年1月5日初版発行
   1972(昭和47)年3月25日19
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