官有鉄道の発起点になっている堤の所へ出掛けた。
 ここはいつもリンツマンの檀那の通る所である。リンツマンの檀那と云うのは鞣皮《なめしがわ》製造所の会計主任で、毎週土曜日には職人にやる給料を持ってここを通るのである。
 この檀那に一本お見舞申して、金を捲き上げようと云う料簡で、ツァウォツキイは鉄道の堤の脇にしゃがんでいた。しかしややしばらくしてツァウォツキイは気が附いた。それは自分が後れたと云うことである。リンツマンの檀那はもう疾《と》っくに金を製造所へ持って往って、職人に払ってしまっている。おまけに虚《から》の財布を持って町へ帰っているのである。実に骨牌と云うものはとんだ悪い物である。あれをしていると、大切な事を忘れてしまう。
 ツァウォツキイはようよう鉄道の堤に攀じ上った。両方の目から涙がよごれた顔の上に流れた。顔の色は蒼ざめた。それから急にその顔に微笑の影が浮かんで、口から「ユリア、ユリア」と二声の叫が洩れた。ユリアとは女房の名である。ツァウォツキイは小刀の柄を両手で握って我と我胸に衝き挿した。ツァウォツキイはすぐに死んで、ユリアの名をまだ脣の上に留めながら、ポッケットに手品に使う
前へ 次へ
全15ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング